小説「ノーベル賞を取りなさい」第14話
あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。
七月になった。萩原の命を奪ったひき逃げ犯はいまだ検挙されておらず、トラックさえも見つかっていなかった。残された妻と娘の姿は葬儀の参列者たちの涙を誘ったが、とりわけ上司であり故人を可愛がっていた留美の心痛は大きかった。せめて遺族の生活費の足しにと、大隈大からは特別弔慰金が支給された。
留美の悲しみを一日も早く癒し、ノーベル経済学賞獲得チームの指揮を執ってもらおうと動いたのは柏田だった。彼は自分の秘書の亜理紗に総長秘書として働いてもらってはどうかと本人および牛坂学部長に提案した。彼女の能力は非常に高く、スウェーデンの学術誌への論文の投稿にも翻訳者として活躍してもらうには一教授より総長の秘書という立場を与えたほうが良策だと考えたのだ。
この提案は亜理紗本人にも牛坂にも、そして誰よりも留美自身に快諾された。独身で一人暮らしの留美にとって、若くて明るい性格の亜理紗は、自分の娘のように感じられる存在だった。
残った問題は、亜理紗の後任の秘書を誰にするかだ。柏田が恐れていたのは、この機に乗じて由香が名乗りでるのではないかということだった。今月中に論文を完成させねばならない柏田にとって、執筆作業への集中こそがなによりも重要だ。その集中力を奪うのを得意中の得意とするのが、由香という娘だからだ。
ところが心配は現実に。由香が留美に直接売りこんだのだ。さっそく留美は、柏田の研究室に由香を連れてきて言った。
「柏田さん、あなたの秘書には由香ちゃんがふさわしいと思うわ。そもそも『zero gravity effect』理論の発案は、由香ちゃんのヒントがあったからこそよね。論文を最後まで独創的なものに仕上げるには、クリエイティブな環境が必要。由香ちゃんにはアルバイトとして学業と兼業で頑張ってもらうわ。よろしくね」
留美が去ると由香は柏田のデスクに近づき、椅子に座った彼の頭をポンポンと叩いた。その頭にかぶった帽子は、夏でも快適なメッシュの生地に変わっており、尻尾もポリエステル製。頭頂部を見ると、網の目から黒い髪が覗いている。てっきりフランシスコ・ザビエルのようなヘアスタイルだと思いこんでいた由香は拍子抜けし
「つまんなーい」
と声をもらした。
「つまんないのは、こっちだ。がるるるるるるーっ」
柏田が、うなり声を上げた。
ランチタイム。柏田がさっと席を立ち、ドアを開けて歩いていくと、案の定、由香がついてきた。建物の外に出て、飲食街へ向かっても、影のように離れない。しばらく進んだのち
「由香ちゃん、食べ物の中でいちばん嫌いな物はなに?」
と柏田が訊くと
「嫌いな物ですか? そうだなー、おソバとか……」
と由香が答えたので、目の前にあるソバ屋へ柏田がささっと入ると、やはり彼女は後についてきて、彼と向かいあいに席に着いた。そして
「うふっ。実は私、おソバ大好きなんです。夏はやっぱり盛りソバが一番ですね」
と笑いながら言った。柏田は不機嫌な表情になり、注文を取りにきた店員に
「盛りソバ二つ。俺のは大盛りにしてっ」
と、ぶっきらぼうに言った。
店内を見渡すと、奥のほうの席に留美と亜理紗が座っているのが見えた。 こちらの存在に気づいた彼女らに、柏田と由香が目礼すると、向こうも笑顔で応えた。
次に入店してきたのは、清井だった。一人で食べにきた彼は店内を奥へと進み、留美たちの席に近づくと、深々と礼をして隣の席に着いた。
「萩原くんもおソバが好きでね。このお店にはよくいっしょに来たものよ」
懐かしそうに語る留美に
「そうなんですか……」
と、亜理紗。
二人の会話を関心なさそうに聞きながら、清井は店員に親子丼を注文した。
「柏田さんが論文を仕上げたら、今度はいよいよ亜理紗ちゃんの出番。流麗なスウェーデン語での翻訳を期待してるわね」
「インゲン ファラ!」
「その意味は?」
「大丈夫です! 任せてください!」
「まあ、心強いわ。亜理紗ちゃん、背も高いし、とっても頼もしい秘書だなって思ってるのよ、私」
「タック ソ ミュッケッ。どうもありがとうございます」
「実はね、論文の出版なんだけど、国内向けだけではなく英語版とスウェーデン語版もどうかなって考えてるの。ノーベル経済学賞をとるための話題作りは、仕掛けが大きいほど効果も大きいでしょうからね。その際は亜理紗ちゃんにも大活躍をお願いしますよ」
留美の話に、隣の席で親子丼を頬張っていた清井の耳がピクリと動いた。