将棋小説「三と三」・第17話
阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。
翌、昭和十四年になっても、幸三の快進撃は続いた。二月から九月まで公式戦において七連勝と白星を重ね、六段昇進以降の成績を十戦全勝とした。
この調子で行けば、七段に上がる日も近い。そして早ければ二年後には八段に昇段をして、第三期名人挑戦者決定リーグに参加し、勝ち抜いて名人に挑戦。それも撃破して、二十五歳で名人位に就くことができる。
四年後の夢に向かって、さらなる研鑽を誓う二十一歳の幸三だったが、その前途に、不気味に垂れこめる暗雲があった。
それは戦争だ。
大陸では一昨年の七月に盧溝橋事件、八月に二度目の上海事変を経て、ついに中国との全面戦争に日本は突入していたし、欧州では勢力の拡大を続けるドイツが、この九月一日にポーランドへ侵攻。イギリス、フランスも相手に、とうとう大戦争を始めた。
この戦渦に、やがて自分も巻きこまれるのではないか。召集令状というやつが届くのではないか。幸三は、それが気がかりだった。もしもそうなったら、将棋どころではない。名人の夢など、吹っ飛んでしまう。
徴兵検査の結果は、第二乙種だった。それは二年前に患った肺炎の後遺症が、まだ体内に残っていたからだ。あの病気のおかげで、もしも召集されたとしても補充兵扱いで戦地には送られず、早めに除隊になるかもしれない。だが仮にそうだとしても、自分の将棋人生に、大きな遅れが出るのは避けられないのだ。
それに引き換え、木村名人はいいご身分だ。今や三十四歳の指し盛り。上位の棋士たちに駒を落としてまったく寄せつけない強さから「常勝将軍」と呼ばれ、相撲の大横綱・双葉山と並ぶ不敗の王者として脚光を浴びているが、その勝負の極意を若き士官たちに教授してほしいと海軍大学に招かれて、戦争に勝つ方法を講義しているというのだから、いい気なものだ。
さらに、将棋大成会の会長としての木村の態度にも、大きな不満がある。それは待遇面で、関西の棋士たちが不当に差別されていることだ。関東の棋士たちの月給は、八段が三百円、七段が二百円、六段が百三十五円、五段が百円。なのに、この升田六段の月給は、たったの二十五円だ。関東の六段の二割にも満たない。だからこそ関西の棋士たちは、声をそろえて「打倒木村」を叫んでいるのだ。誰かが木村を名人の座から引きずり下ろし、代わって将棋界の第一人者の地位に就かなければ、自分たちはろくな暮らしができないではないか。
では、いったい、誰が木村を倒す? それは升田だ。升田なら、きっとやってくれるだろう。関西の棋士たちの自分に寄せる期待が日増しに高まっていくのを、幸三は強く感じていた。
そんなある日のことだった。関西社交クラブ将棋連合会の幹事から、幸三が声をかけられたのは。
「再来月に、木村名人が所用で来阪される。どうや、升田君。一局指してみんか」
「ほ、本当ですか……」
「うん。公式の対局やのうて、あくまでも連合会主催の席上手合いやけどな。破竹の勢いで勝ち続けてる君が名人に挑むのを、みんなが楽しみにしてると思うのや」
「ぜ、ぜひ指させてください! 絶対に勝ってみせますから!」
「よろしい。君がその気なら、さっそく段取りをつけよう。名人と六段の対局やから、手合いは香落ちになるやろう。場所は清交社のホールの予定。頑張ってや」
打倒木村の好機は、早くも訪れたのだった。
「マスやん、これは負けられん将棋だっせ。いくら相手が常勝将軍の木村でも、香車を落とされて勝てへんようでは、この先、名人になれる見込みはおまへんさかいに」
翌週。お乳の家で、木村との対局について幸三から聞いた阪田は開口一番、厳しい言葉を吐いた。
「はい、分かっています。東京の八段連中が、香落ちでも木村に勝てないのは、ただ弱いからだと私は思っています。弱い者たちを相手に常勝を名乗る木村など、たかが知れています。絶対に勝ってみせます」
きっぱりと、幸三は言った。
「聞いたところによると、海軍大学で木村はこんな講義をしたらしいで。勝負において肝要なのは、知識の総動員である。自分は対局への準備として、必ず相手が過去に指した将棋を盤上に並べて調べておく。これは、軍人が各国の戦史を知っておかねばならないのと同じである。アメリカにはアメリカの、イギリスにはイギリスの、フランスにはフランスの戦史があり、それを知っておくことは必須である。日清・日露の戦勝に驕ることなく、来たるべき勝負に向け動員すべき知識を潤沢にしておかねばならないと。やけに偉そうにのたもうたようやけど、升田君の将棋も、木村にことごとく調べられるんちゃうか。八段を相手に負けない香落戦を、六段の君に負けでもしたら名人の沽券に関わるさかいに、こんどの一番には、きっと知識を総動員してきまっせ、木村は」
そう長広舌をふるったのは、谷ヶ崎だ。それに対しても、幸三は平然と言ってのけた。
「もちろん、それは百も承知です。けれど、木村の集めた知識は、すべて無駄になることでしょうね」
「無駄になる? そ、それは、どういうこっちゃ?」
訝る谷ヶ崎に、
「それは、この手合いに、私が新手で臨むからです。過去の香落戦において、誰一人として指したことのない、新手で挑むからです。見たこともない私の一着に、やがて木村は無駄な努力をしてきたことを後悔するハメになるでしょう」
と、幸三。
「マスやん、きっとそれは、最近の木村の香落戦を調べたうえでの新手なのやろうな。木村や花田を相手にした、わての端歩突きみたいに、面白半分で指した手やのうて」
阪田が訊くと、
「はい、もちろん。この数日間、新聞や雑誌に載った木村の棋譜を私は徹底的に調べ上げました。そうしたら、ふっと新手が閃いたのです。東京の八段連中をねじ伏せる、木村得意の『3四銀』の構え。まず、それを阻止することが、私の作戦の骨子です。そうしておいて、新手が炸裂。木村陣を木端微塵にしてみせます。さんきい先生も、谷ヶ崎社長も、どうぞお楽しみに!」
幸三の返事に、
「ひゃっひゃっひゃーっ」
阪田のカン高い笑い声が飛び出した。
「新手炸裂やて、愉快やなあー、ひゃっひゃっひゃーっ。木端微塵やて、痛快やなあー、ひゃっひゃっひゃーっ。お互いに、将棋の調べっこ。こっちはええ手を見つけてるのに、あっちはただただ眺めてるだけ。海軍大学の先生も、大したことおまへんなあー。ひゃっひゃっひゃーっ、ひゃっひゃっひゃーっ」