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将棋小説「三と三」・第9話
阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。
「関東の棋士など、取るに足らぬものだ」
十一月初旬の東京を歩きながら、幸三は呟いた。
青山北町の将棋大成会本部で先月から行われている、全四段登龍戦。さんきい先生に約束した通り、関西予選を全勝で勝ち上がり、二位の畝美与吉四段とともに上京した。
関東予選を勝ち抜いた五名は、大和久彪、奥野基芳、島村増喜、樋口義雄、松下力の各四段。東西七名による総当り戦の結果、上位三名が五段に昇段できるのだが、ここでも全勝してみせると、さんきい先生に宣言してきたのだ。
その誓いは、順調に実現へと向かっている。島村、奥野、樋口の順に関東勢を撃破し、目下三連勝。あと三つ勝てば、全勝で五段に上がる。
出場棋士が確定したとき、棋界通の谷ヶ崎はこう言った。
「升田君だけが十代で、あとの六人は二十代と三十代。年上の相手ばっかりや。最新の定跡を身につけた関東の理論将棋に、あしらわれんようにな」
「なあに、理論将棋と言ったって、ただ格好つけとるだけですよ。定跡の研究なら、こっちだって棋神・阪田三吉直伝の戦術を、お乳の家でたっぷり吸収しとります。東京方の四段など、みんな吹っ飛ばしてきますから、ご心配なく」
幸三がそう返事をした通り、関東勢の実力は、大したものではなかった。序盤の形は良いのだが、中終盤の力に欠けている。要するに、非力なのだ。今日の対戦で負かした樋口四段は、対局後の感想戦でこう話した。
「大阪に升田幸三という途轍もなく強い若手が現れたそうだと聞いてはおりましたが、なるほど噂は本当でしたね……。あなたの将棋は、一見俗筋のような手を指してくるのだが、それでこちらはどうにも仕様がなくなっている……。恐ろしい将棋だ……。いや、参りました……」
この幸三に言わせれば、力がまるで違うのだ。東京の連中がこれで四段を許されているのであれば、自分は五段を通りこして、もう六段くらいの力があるのではなかろうか。
三連勝ですっかり気を良くした幸三は、せっかく東京に来たのだから、銀座見物でもしてみるか。そう考えて、電車に乗り、三十分足らずで到着した。そして、驚いた。東京方の棋士は取るに足らないが、この銀座の街の洗練された華やかさといったら、大阪の誇る道頓堀も敵わぬ、たいへんなものだ。
銀座四丁目の停留所で降りて、三丁目、二丁目、一丁目と東側の歩道を幸三は行き、京橋の南詰で折り返してから今度は西側の歩道を新橋方面へ。五丁目、六丁目、七丁目、八丁目と進むと、再び折り返して京橋方面へ「銀ブラ」というものを実践してみた。その結果、観察できたのが、飲食店の多いことだ。松屋、三越、松坂屋、服部などの大きな建物の間に、たくさんの喫茶店や菓子店やレストランなどが軒を連ね、それらのハイカラな店構えが、電車や自動車の奏でる音響、人混みのざわめきなどと相まって、東京一と呼ばれる繁華街を形成しているのだ。
関東大震災からの銀座の復興は、カフェーの増殖とともに成されたのだと、東京出張の多い谷ヶ崎は言っていた。銀座とは、日本の趣味と欧米の趣味、貴族の気分と大衆の気分とが交錯している街だとも、今回の上京に際して彼は教えてくれた。なるほど、そんな気が、幸三はしてきた。
これも上京の便利のために谷ヶ崎に借りてきた腕時計を、羽織の袖をめくって見ると、今日は対局が早く終わったこともあり、まだ五時前だ。晩飯にはちょっと早い。どこか喫茶店に入ってコーヒーでも飲むか、どの店にしようか。
あれこれと迷いながら、三丁目の松屋呉服店の脇を通り、裏手へ回ってみる。表通りほどの華やかさはないが、そこにも瀟洒な造りの店がいくつか並んでおり、それらの看板のひとつに
「純喫茶 腰かけ銀」
とあった。
その名称が、幸三の気を強く引いた。なぜなら「腰掛銀」というのは、将棋における構えの一種であるからだ。九×九の桝目の将棋盤。その中央の5筋に、先手から見れば上から数えて七番目の5七の桝目に歩があり、その一つ上の5六の桝目に銀がある。その構えを、銀が歩の上に腰掛けているように見えることから「腰掛銀」と呼ぶのだが、それが喫茶店の名前とは、どういうことなのだろう。銀製の椅子でも置いてあるのか。ちょっと、覗いてみよう。ドアを押し、幸三は中へ入っていった。
間口が二間ほどの小さな店だが、入口から一歩入ったところから板敷になっており、奥側には丸いテーブルが二卓に椅子がそれぞれ差し向かいに四脚、手前の側も同様に、二つの丸テーブルに四つの椅子が配置されている。合計八つの椅子は、幸三が推測した銀製とは違って、木製だった。
「いらっしゃいませ!」
左手のカウンターテーブルの奥から、元気な声とともに現れたのは、若い娘だ。桃色の提灯袖のワンピースに、真っ白いエプロンを着けている。黒々としたおかっぱの髪には、こちらも白いカチューシャが際立って見える。
「お好きな席へどうぞ」
店内に客はいない。娘の声に促されて、幸三は奥の右側のテーブルへ行くと、椅子に腰掛けた。花柄の生地を張った、赤褐色の椅子だ。細かい木彫を施したテーブルもまた、同じ色をしている。
「この上等そうな椅子と円卓は、何という木で作られているんですかの?」
幸三が訊くと、
「マホガニーです。椅子のお花の生地は、ゴブラン織り」
異国情緒の漂う名称を、娘が口にした。
なるほど、「腰掛けまほ」「くつろぎまほ」というわけか。どうせなら「腰掛けまひょ」のほうが大阪人には気安いのだが、それだとマヒョガニーになってしまうしな、などと、下らぬことを幸三が考えていると、
「メニューはこちらでございます。ご注文が決まりましたらお呼びくださいませ」
歳の頃は十五、六。そばかすの顔にあどけない笑みを浮かべてそう言うと、水の入ったコップを盆からテーブルへ置き、一礼して娘は去った。
メニューを開くと、お飲物、お食事とに分けて、いろいろとある。何にしようか。コーヒーか、紅茶か、ココアか、ソーダ水か、ミルクもあるし……。
幸三が思案をしていると、店のドアが開いて、客が入ってきた。男が二人、入口に近いほうのテーブルに差し向かいに着くと、一人はズボンの足を大股に広げたまま、もう一人は足を組んで、椅子の背にもたれて座った。それぞれ鼠色、海老茶色の上着で、鼠色のほうは眼鏡を掛けている。二人とも三十前後だろうか、無精ヒゲを撫でさすったり、ぼさぼさの髪を手櫛で掻き上げたりしている。
「いらっしゃいませ!」
先ほどの娘が現れると、
「ウォッカをくれ」
「僕もだ」
鼠色、海老茶色の順にそう注文した。
「あのう……」
娘は困ったような表情になり、それから返事をした。
「あいにくなのですが、ウォッカは置いてございません……。当店は純喫茶ですので……」
「なにい」
鼠色が言った。
「純喫茶だって、酒くらいあるだろう? ビールとかウイスキーとか。では、ビールをいただこう。二つだ」
娘はますます困惑顔になり、小さな声で応じた。
「申し訳ないのですが、ビールもウイスキーもございません……。当店は純喫茶ですのでお酒の類は置いていないのです。お出しできなくて誠に申し訳ございませんが……」
その返事に鼠色は、
「聞いたかね、君。今の言葉」
と、海老茶色に言った。
「ああ、聞いたとも」
海老茶色が答えた。
「純喫茶だから酒の類は置いていないというのは、労働者の実質賃金が恒久的に低い水準に保たれるのだから資本家は賃金額を超えた生産物余剰を利潤として受け取ることができるという論理を逆説的に言い換えたもの、すなわち資本家が賃金額を超えた生産物余剰を利潤として獲得する存在なのだから労働者の実質賃金は恒久的に低い水準に保たれざるを得ない、というのと同義だな。ねえ、女給さん。もしかすると、貴女は、資本家どもの手先なのかな」
「…………」
海老茶色の弁舌に、娘は下を向き、黙りこんでしまった。その様子を面白そうに眺めながら、こんどは鼠色が喋り出した。
「その獲得した余剰をだねえ、よーく聞きたまえよ女給さん、資本家という奴らは他の資本家連中との競争上の必要もあるし、絶えずより多くの利潤を得ようという強欲にもかられて、資本増加のために再投資し、自分の雇っている労働者の生産性を高めることを互いに競い合うのさ。その結果として生じるのが、生産物の総量の絶えざる増加だ。そうして長ーい目で見れば、実質賃金の水準は下がる一方だから、生産量の全体の中での利潤の分け前は、生産性が高まるのにつれて資本家の奴らのほうがどんどん大きくなって、資本の蓄積率もぐんぐん上昇する。そしてついには、資本主義という制度そのものの内部矛盾が爆発点に達し……」
そこへ海老茶色も声を和した。
「プロレタリア革命による新しい社会が誕生するってわけだ!」
そのとき、カウンターの奥から、もうひとり女性が現れた。
すらりとした長身、色白の瓜実顔、パーマネントの髪。二十代の半ばくらいだろうか、涼しげな表情をして、騒ぎのテーブルへ音もなく歩み寄ると、凛とした声で言った。
「おやおや、まだこんなお時間だというのに、お二人ともお酒臭いこと。どこかでずいぶん聞こし召して来られたのかしら。うちは特殊喫茶のような、いかがわしいお店ではございませんことよ。だいいち、そのような大声でお喋りをされては、他のお客様にもご迷惑
ですしね。どうぞお帰りくださいまし」
毅然とした物言いに、二人の酔客はやや怯んだ様子を見せたが、やがて勇を鼓して鼠色が椅子から立ち上がり、女性に向かって声を発した。
「出たな、プチブル。なんとまあ優美な、プルシャンブルーのフレアワンピース、光沢放つベルベット生地の高価そうなこと。中産階級のどの辺に位置しているのかは存じ上げないが、ご店主と思しき貴女は、この女給さんをいかほど搾取しておられるのかな」
続いて海老茶色も立ち上がると、女性の全身を舐めまわすように見ながら、下卑た口調で言った。
「たいそうな美形だが、どうせならスカートの丈をうんと短くしたらいかがかな。そのほうが、客も増えるぜ。それこそ、資本主義の歓楽だ。その歓楽の相を一皮むけば、たちまち貧困の相というものが現れるのだがね」
その猥言に動じることもなく、女性はじっと立ったまま、海老茶色の淫らな視線を、澄んだ瞳で撥ね返している。海老茶色は、たまらず目を逸らした。
相棒の劣勢を見た鼠色は、矛先を転じて、実力行使に出た。
「さあさあ女給さん、こっちへ一緒に座って、昨今のプロレタリア文学についてお話をしましょ。ブルジョア階級の罪悪について語り合いましょ」
そう言いながら、エプロンの娘に抱きついたのだ。
「いや、いや、いやあーっ!」
娘の悲鳴を聞くに及んで、それまで傍観していた幸三は、とうとう動くことにした。まず、警告。
「やめんさい」
向かいのテーブルからの低い声に、
「なんだ?」
と、鼠色は娘から手を放し、幸三のほうへ振り向いた。
「この丸刈り頭め。どこの田舎モンだ?」
その侮言を待ってましたとばかり、幸三は立ち上がった。
「広島の山奥から出てきた田舎モンじゃ。その娘さん、嫌がっとるじゃろう。いやらしい真似はやめんさい」
自然と広島弁が出る。阪田や谷ヶ崎の前では丁寧な言葉づかいを心掛けているが、こういう場にあっては、やはり生まれ故郷の物言いになる。
相手が六尺もの大柄だと気づいた鼠色は、やや後悔しながらも、やけっぱちで喚いた。
「なんだと! 痛い目に遭いたいのか、この丸刈り頭!」
「痛い目に遭うんは、どっちじゃろうかのう。この丸刈り頭そのものが、教えちゃろうかのう」
そう言いながら、幸三は鼠色に近づき、手を伸ばして襟元をつかむと、
「歩兵突きっ」
掛け声とともに頭突きを食らわした。
「ぎゃあっ」
眼鏡が吹っ飛び、鼠色は頭を抱えて床に座りこんだ。
続いて海老茶色に近づき、ぼさぼさの頭髪をつかんで引き寄せ、
「香車突きっ」
丸刈りの頭突きをお見舞いした。
「ぐあっ」
衝撃に耐えられず、海老茶色は床に倒れこんだ。
「銀将突きっ」
立ち上がり、歯をむき出し、指に噛みつこうとしてきた鼠色に、三発目。
「金将突きっ」
椅子を持ち上げ、投げつけようとした海老茶色から、椅子を奪い取ったのち、四発目。
さらに反撃を試みる二人に、
「飛車突きっ」
「王将突きっ」
と、それぞれ止めの頭突きをくれてやると、酔漢たちはすっかり床に伸びてしまった。
「ワシの丸刈り頭の中には、将棋の駒がいっぱい入っちょるけえのう。頭突きをすると、駒たちが飛び出してくるんよ。痛かったろうのう、こらえてつかあさい。もう二度と、この店には来ないでつかあさい」
そう言うと幸三は、店のドアを開け、酔漢たちの襟首をつかんで続けざまに外へ放り出した。
それからドアを閉め、テーブルに戻ると、椅子に座り直し、エプロンの娘に声をかけた。
「コーヒーとハヤシライスをください。飲物だけを注文するつもりだったのに、運動をしたおかげで腹が空いてしまいました」