「好きの反対はどうでもいいについて」
帰り道が一緒というだけで関係性が深まるのではないだろうか?
小学生から専門学生。そして社会人時代。今まで様々な人間関係があって今を生きているが、
同じ帰り道というだけで仲良くなれる
こともあったんじゃないのかと、最近思えてきている。
人は共通点があれば仲良くなりやすい。ピアノやっている人同士繋がったり、同じゲームをやっている人はその人達と繋がる。規模が大きくなれば大きくなるほど繋がりにくくなるが、その理論はあると思う。
同じ所属、学校会社部活。同じ時間を共にするので何も共通点がない人よりは仲良くなれる。そう、帰り道も同じだ。住んでいる方向が同じだからこそ、一時的な小時間のプライベートの時間を獲得することができる。
規模が小さくなれば、また深い関係性が繋がる仲間になりやすくなる。
良くも悪くも普段の姿が見れるのである。会社での姿、学校のでの姿。
小時間でもその人の人となりを知ることができるから仲良くなれるのだ。
嫌がる理由にもなるがね。人に見えない部分が見えるから仲良くなれたり、なれなかったりするのだ。
八方美人にはなれない
深い関係を築けないというのは、素を出せないからである。
何かの大きなチームでいつもの態度を取れば問題は生じる。帰り道にポロっと出るくらいで、大きな所属ではその人の素は見れることはない。
だからこそ、プライベートの時間を共有することが大事なのだ。
周りの目を気にしすぎとかではなく、大人数がいるなかで自分の趣味を大きな声で言える人はどのくらいいるのだろうか。
なかなか言えないモノもあるだろう。マイナーな趣味を持っている人ならこの気持ちは分かると思う。
否定はされやすいのである。マイナーであればあるほど理解者は少ない。
真に理解されないのであれば距離は縮まることはないのである。
同じ帰り道だけど仲良くなれないのはなぜ?
大人数がいる場所と変わらないのである。その立ち振る舞いが。
会話をしなければ同じことだ。上辺の言葉をつらつらと並べておけばよい。
嫌いにも好きにもなれないのである。
都合のいい人間として好かれることにはなると思うが。
八方美人はそして、孤独になる。
自分がなくなるのである、処世術としては確かに有効だ。
ただ、嫌われることすらない好かれることもないのである。
ありのままを見ず、従順に従ってくれる都合のいい人間だから付き合ってくれるだけであり、本当に友人ではないという事だ。
どこにも方向性を合わせていたら、誰でもいいのである。
その人の代わりなど沢山いるのであるから。
損得勘定の関係性に成り下がるのである。
「好き」の反対は「どうでもいい」
まず、視認されていないのである。そりゃ一日に何百人と会う訳だ。
老若男女外に出れば絶対にすれ違っている。記憶にすら残らない赤の他人。
個性があれば思い出すかもしれないが、個性がなければ思い出すことはない。仕事でお客さんを相手にする時もどこまで覚えているかと言われれば、余程の常連でないと思い出すことはできない。
他人は思ったより気にしていないのである、自分も相手もどうでもいいと少なからず思っている。
好きの反対は嫌いではなく、どうでもいいのである。
極端な話、目の前で死なれなければ何をしててもいいと同じ。何も思わないのである。
「嫌い」だから「好き」という事にもなる
本当に嫌いだったら記憶から抹消するだろう。
嫌いだけど気になるというのは一種の愛でもあるという事だ。
どうでもいいよりは上である。気持ち悪いかもしれないけれどね。
それがその人の影響力でもある。少しは食べれる食べ物でもあるという事だ。ヒトは食べちゃダメだけど。味のない辛味?
「嫌い」から「好き」にもなるということ
好きから嫌いになることはある。好きからどうでもいいになる。
嫌いからどうでもいいにも、つまり嫌いから好きになることもある。
これは第一印象が悪かったけれど、思ったよりいい人だったという内面が見られたからどうでもいいにならなかったという事例でもあるだろう。
めちゃくちゃ怖そうなお兄さんが家ではクマのぬいぐるみを沢山集めてたらそれはそれで親近感が湧く人も出てくるかもしれないからだ。
ある意味、個性やギャップが強ければどうでもいいにはならないのかもしれない。
怖いからもしれないけれど、自分から自己開示して素を出していこう。
八方美人にはなれない。それを念頭に置くことができれば必然としっかりした人はその人の周辺に集まると思う。行動回数が増えればとても受け付けることができない人も確実に出てくると思うけれど。
何を言われても、その人の人生なのだから自分でしか変えることができない。他者を変えることはできなくはないが、やっぱりどうでもいいや嫌いに格下げされることの方が多い。余程の愛があるなら別だけどね。
それが自分の思う人間関係についてだ。