思い込みというフィルター
この世に生まれてから今に至るまで、劇的な変化はあるかもしれないが本人そのものは変わらない。何が変わっているかってそれは自分で見たい世界を決めているだけだからである。
自分に自信がないと思い込んでたとしても。周りから自信があるように見えたらその人は自信があるということになる。
その本人は知らず知らずのうちに嘘を付いていることになる。
そう見えているのならそれが真実になるのだ。紛れもなく本人のハードルでは自信がなかったとしても、自信があるという人間に認定される。
自分から見える自分と周りから見える自分というには大きな祖語が生まれる。逆も然りだが。
愛されたことが確実にあるのに愛されたことがないと決めつけることだってできる。
いや、本当にないかもしれない人もいるのは承知。それはそれとしてどんな形であれ、その本人は愛しているつもりかもしれない不器用な人ということもあるのだ。
送る人も受け取る人も不器用な事もあるのだ。
例えばだ。誕生日プレゼントを贈ったり貰ったりしたというのは友好の証。
思いやりの賜物である。送ったり貰ったりというのは実際嬉しいものだ。
親愛、友愛、性愛と様々な形があるが、どれも受け取ることも大事という話だ。返すものがないからと言って返してはいけない。
俺はクリスマスプレゼントを相手に買って、受け取って貰えなかった事を今でも根に持っている。
受け取ることも大事なのだ。(二回目)
相手の視点で考えれば、貰ったら返すべきという考えがあったからこそ拒否をしたのだろう。いや、本当に要らなかったのかもしれないが、、、
これも自分が見たいように見ているだけなのかもしれないが。。。
自分が見える世界と相手から見える世界は同じじゃない
目が悪くてぼやけているかもしれないし、視力がいいかもしれない。
これは思い込みのフィルターと同じで決めつけることができるのだ。
目が悪いなんて嘘だ!なんて言いつけることだってできる。見えない物は見えないし、紛れもない事実である。
目が良くてじっくり見ている人もいるかもしれないが、んなそこまで人は興味を持たないよ。誰しも思い込みというメガネはかけていることになる。
暇を持て余している人ならじっくり見てしまうかもしれないけれど。
何か失敗したから駄目だと思っても、その部分が見えなければ失敗した事に気付かない。逆に失敗したという焦りの態度でやっと観測できるくらいだろう。
当たり前と思っていることが当たり前じゃない。
これは当然でしょ?ってことは少ない。ケースバイケース。
そもそも絶対的な正解は存在しないのである。
これをできるから絶対に安心という事でもないし、隣の芝生は青く見えているだけである。最終的に自分なりの満足がいく答えに辿り着かないといけないのだと思う。
僕の正解が正解とは限らないし、他人の正解が自分にとっての正解でもない。だけど、その人なりの答えを少しずつ蓄積するしかないのだと勝手に思い込んでいる。
思い込みというフィルターを外すには
メガネを一旦外してみる事だ。あくまでイメージのようなものだけれど。
ずっと信じていたことが嘘だったかもしれないし、嘘だと思い続けたことが真実だったかもしれない。世界は逆転することになる。
変わるのは怖いかもしれないけれど、案外慣れたらそうでもなくなる。
人間は慣れて、適応する生き物だからである。
自転車と一緒だ。理論で言えば途轍もなく難しく感じるかもしれないが、人間は乗りこなせてしまう。一輪車でも乗ろうと思えば前に進めたり、後ろに下がることもできる。適応するには時間の問題だ。
一日、二日で思い込みの眼鏡を外すことは難しい。
結局な所、時間が解決するのだと思う。
物理的にも視野が広がると自分はそう思っている。
傷が付く勇気
時間の問題だとしても、行動をしなければ変わらない。
ゼロはゼロのままである。1から2へ進めればいいのだが。
思い込みの眼鏡を外すには、それ相応の覚悟は絶対に必要なのだろう。
弱い部分に向き合えるか、向き合えないか。
変わるのが怖いから、変わることは楽しいと思い込むことができれば、その人にとって苦ではない。だが大半の人はそうはなりにくい。
マイナスなイメージの部分はそうはなりにくいからである。
霧のかかった眼鏡をかければ、楽だからだ。
逃げた方が楽。見ない方が楽。挑戦しなければ楽。
誰かの足を引っ張れば、自分の尊厳は守られるからである。
何方に自分はなりたいか、そういう話だと自分は思っている。