冬の怪
雪が降る深々(しんしん)という音すら消失してしまう、足を踏み入れたならすっとそのまま己の姿までも消えてしまうそんな夜にその怪(ケ)は現れるのだという。
コツ、コツ、と引き戸の玄関の磨りガラスを目的もなく叩くそれは「遭ったなら無視をしろ」などと言われるその理由は「だって、行ってもそこにいないから」と言う事のもので別に行ったから取って喰われるという事ではないそうだ。
悪いやつでもないけど、音まで冷え切ってアンカの恋しくなる夜にそんな傍迷惑な怪に遭いたくなんぞないものだと子供心に考えたものである。
さて時は僕という人間が飲酒やら喫煙やら契約の自由を得た位の事である。
東京に雪が降った、
真っ赤なタワーと真っ青なタワーと2本の支柱を備えながらもこの都市ときたら雪に対する抵抗力が赤子の腕の様なもので大学は敢えなく休校を宣言したもので僕は金曜日の朝に起きたそれを大層喜んで積読などと部屋の隅に堆積していた本の山を真っ昼間から酒をかっ食らって気に入りのスタンダードジャズなんて流しながら引きこもり生活を満喫していたのだが、僕の読む本はやたらと小難しく長々として日本語が日本語を成していないなどと友人に揶揄られる様なもんなので気がつけば夜がとっぷりと暮れていた。
4冊目を読み終えて丁度酎ハイも無くなったな。どれコンビニにでもと思った途端、「コツ、コツ」という固いものがベランダのガラスから聞こえてきて僕はぎくりと身をこわばらせることとなったのだ。
耳をそばだてれば間隔を空けて「コツ、コツ」とやられること5回目程度で僕は住職の息子である友人から聞いた冒頭の与太話を思い出したのであった。
「行っても、なんにもならんぞ。見たとしてがっくりくるぞ。」
友人の声が頭の中に響く。
「コツ、コツ。」
さてはカラスの仕業かしら、と古風に考えてみたが僕は見てしまったのだ。
ベランダのガラスの向こう、雪がベッタリと張り付いて磨りガラス状となっている其処に薄らと透ける、鹿の角を掲げた小さな人影は、いくらなんでも飲み過ぎたってにはハッキリと見え過ぎていた。
「コツ、コツ」
子供、本当に2才3才とかくらいの大きさの子供位のシルエットである。
それがなんだか背伸びがちに僕の部屋のベランダのガラスを「コツ、コツ。」とやっているのだ。
正体を知りたい。
その姿について僕の好奇心が擽られない訳もなかった。
僕のモットーは「虎穴に入らずんば」である、お陰で人様より怪我をする頻度が多い。
「コツ、コツ。」をBGMに幼児大のそのシルエットの姿の正体をこの目に収める作戦を僕は瞬時に構築した、アパートの裏側を回って行けば僕の部屋のベランダは丸見えだ。
だからちょっと家賃が安いのかなと大島てるを眺めてみたが特に面白い情報も無かった事を思い出した。
何故か急に思い出した事故物件掲載サイトのことは置いておいて僕はそこに佇む怪異の姿をあわよくばスマホの中に収めようと胸が高ならないフリをしながら「音なんて聞こえてないよ」といった態度で外出の準備を進めた。
「見に行ってみればいない」
って事はもしかしたら見に行ってないていであれば見えるかもしれない。
この世は言霊で構成されているのだ、だから言霊の裏を掻けば其処に面白いモノが転がっていると言うことは知っている、だから向こう見ずにも「言霊」を専攻する大学なんぞに在籍しているのだ。
話は逸れたが僕は「知らない、知らないよ」と小さく口遊みながら、腹の底ではワクワクとしながら玄関戸を開いてゆっくりとベランダ側へと歩を進めた。
遂に僕はそいつの正体を見る事とあいなった。
おっさんだった。
頭頂部が寂しい、今日日ドリフターズのコントでそんな格好のおっさんいたわと思うようないで立ちのスタンダードなおっさんである。
顔は見えない。なぜかやっぱり鹿の角だけは鹿の角みたい。
「コツ、コツ。(がっかりするだけだ。)」
やっぱりあいつの言う事は悔しい位に当たってんだな。
「コツ、コツ。」の音に合わせて何故か住職の息子の友人の声がした気がした。
今確か本人も住職になってる筈だ。
そう考えて僕はそっとお代わりの酎ハイを求めてコンビニに真っ直ぐ向かう事にした。
もしかしたらこれの所為で家賃安いのかもしれないな、なんて考えながら。
見ない方が世の中素敵な事って結構ある。なんて考えながら。
〈了〉
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