富山より先祖をしのぶ
2022年がスタートし、2本のツアーが終わりました。今月のテーマは「行く」なのでとにかく行く。今日参加してくださったシニアの3名はガチなリピーターさん。先週、津波で中止にした際の振替で、本日になりましたが、おかげ様でお天気に恵まれて穏やかなウォーキング日和となりました。
歴史ある松島に住んで、今年で25年目になります。家族の理解と協力があってからこそ仕事が出来ています。
今回の富山のツアーの架け橋は夫でした。避難所を借りるのに、夫のゴルフの打ちっぱなし仲間から、区長さんを紹介してもらいました。もちろん誰でも申請し許可が下りれば避難所を借りることは出来ますが、知っている人が入ることによって、お互い安心できますし、信用という部分では夫に力になってもらっています。
機会があったら、またここでイベントをしたいなぁ~と考えています。
今日のタイトル、富山より先祖を偲ぶですが、こちらは400年前の先祖、和泉守(いずみのかみ)さんの船の舟印です。
和泉守さんのことは何度も書いているのですが、はじめて読む方もいらっしゃると思うので再度書かせてください🙏長南氏の研究・中村就一先生の書かれた郷土史より、自分の言葉を使って書きました。
和泉守さんは、大坂夏の陣で豊臣方につき敗戦しました。その頃の上司にあたる里見家(里見八犬伝の里見家)も突如改易されてしまい、牢人になってしまいます。命の危険も迫り、上総の国(千葉県・長南町)を部下三十数名を引き連れ脱出します。サムライ職を続けるために、仙台藩にリクルートされたい!(採用)と先に流れた仲間のいる浦戸にやった来ました。豊臣側につき、改易された里見家で勤めていたサムライを伊達藩が採用するわけもなく、交渉は1年半以上難航します。その間は浦戸に上陸せず、船で暮らしていたそうです。
その後、寒風澤で刀を置き、寒風澤を耕し寒風澤港を築港します。これが廻船問屋「寒風澤長南屋」の始まりです。廻船問屋になったのは有事の際に水軍として出征させようと政宗公は考えたのではないかと言われています。
それから200年後、和泉守さんの次男系・十一代目清八郎さんは戊辰戦争時、浦戸の浦役人をしていました。旧幕府軍の榎本さんや新選組の土方さんたちが函館へ行くのにお世話をしたのは清八郎さんだったそうです。
清八郎さんの自宅は昔の第一小学校跡地。今は更地になっており、寒澤寺に行く際、横目で「ここに清八郎おじさんは住んでいたんだ。」と眺めています。思うと切なくなるお話です。
世は明治維新となり、新政府の方針で寒風沢彦和田港が不要になってしまいました。建設費用の莫大な借金を十一代目清八郎さんはいっきに背負ってしまいます。同じ時期に荷物の不達事故や、江戸で買い付けた魚を乗せた船が転覆し不幸が重なり、借金はさらに膨らみました。一族の中には借金苦から、日和山から命を落とした人もいたそうです。その後、長南一族は寒風沢から離散していきます。
十二代目清八郎さんこと、十一代目の一人娘のアイさんはその頃、野蒜の母方(阿部家)親戚に預けれられました。父である十一代目清八郎さんが亡くなると、寒風沢に戻り親戚にあたる土見家にお世話になったそうです。遠い親戚が、土見家にあたります。
アイさんは一人っ子で独身でした。十一代目清八郎さんから受け継いだあらゆるものをアイさんの叔父、ワタシにとっては高祖父である勇吉さん(十一代目・清八郎さんの弟)に引き取ってもらおうと福田町のもろや(私の祖父の実家は福田町にあった酒屋)を訪ねたてきたそうです。
私の祖父(勇吉さんの孫)はその頃、福田町のもろや(酒屋)にいたので十二代目のアイさんと会ったことがあるのではないかと想像すると、150年前がそう遠くに感じないのです。
読むたび切なくなるのですが、400年前に自死せず命をつないでくれた和泉守(いずみのかみ)さんのおかげで今、自分がいると思うと感謝の気持ちでいっぱいになります。
富山に登ると寒風沢が近くなるので先祖が近くにいるような気がします。先祖のはたらきに報いるよう、しっかりと地に足をつけて働かなくてはと新年、新たな気持ちで誓いました。
次回は2/6(日)まつしまのまちあるきです。歴史色を取り払い、あんなとこ、こんなとこ、こんな店、こんな人の視点でまちあるきします。ただいま参加者募集中です☟
引き続きゴシュランをよろしくお願いいたします。
ゴシュランこと鈴木由美子
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