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沖縄県糸満市を踏破<日本全市町村踏破(制覇)>

2018年2月13日。与論島で奄美群島全市町村を踏破し、飛行機で那覇へ飛び、南隣の豊見城市を踏破して、さらにその南、沖縄本島最南端の糸満市へ。

まずは、沖縄本島最南端・喜屋武岬(きゃんみさき)へ。

本当は、ここから見える荒崎が、沖縄県の最南端。ただし、荒崎へ通じるまともな道は存在しない為、事実上、喜屋武岬が最南端と言って良く、それが流通しているようだ。この岬を境に、太平洋と東シナ海が分かれていると、岬の案内板にあった。

喜屋武岬には「平和の塔」が建っている。塔と言っても人の身長程の慰霊碑なのだが、ともかく、このあたりは第二次世界大戦における沖縄戦の激戦地で、米軍の攻撃により逃げ場を失った日本軍と住民が玉砕したことを悼んで建てられている。

平和の塔の隣に、こんな写真パネルが。玉砕を意識してのものかもしれないが、それにしてはメッセージが曖昧。ここは断崖の為、自殺が多いのかもしれず、思いとどまらせる為のものだろうか。それならば、メッセージが優しく曖昧なのも、分からないでもない。

沖縄本島南端に位置する糸満市は、上述の通り、沖縄戦の激戦地であり、喜屋武岬の「平和の塔」以外にも、数多くの慰霊碑・慰霊塔が建っている。その中でも広く知られているのが「ひめゆりの塔」だ。

「ひめゆりの塔」は、看護要員として前線に動員された女学生や教師が逃げ込んだ地下壕の上に建てられた慰霊碑だ。この地下壕は米軍の攻撃を受け、数多くの犠牲者を出した。その慰霊の為の塔である。

「平和の塔」と同じく、塔と言っても小さなもので、実際には慰霊碑と呼ぶのがふさしいのだが、これは終戦直後の物資難にあり、また米軍統治下の為、配慮してそれほど大きなものは建てられたなかった(あまり大きなものは統治する米軍への非難につながる)という事情があるようだ。

なお、「平和の塔」は昭和27年(昭和44年改築)、「ひめゆりの塔」は昭和21年に建てられている。終戦は昭和20年、沖縄復帰は昭和47年だ。

今も生々しく残る地下壕に、言葉を失う。

敷地内には資料館もあるが、既に開館時間を過ぎて閉まっていた。

その他、周囲には様々なモニュメントや彫像が建つ。

沖縄戦とひめゆり学徒隊の案内。ひめゆり学徒隊は、那覇の学校から動員され、那覇の南の、南風原(はえばる)あたりの病院等に配属された。病院と言っても、戦時下のもので、横穴壕にベッドを備えただけのものだったようだ。

やがて戦況が厳しくなり、南部へ撤退。しかし激しくなる米軍の攻撃の前に、最早学徒隊の維持自体が困難になり、突然解散命令が下される。解散と言われても、既に周囲は戦場であり、沖縄本島の最南部ということで周囲も海に囲まれ、逃げ場はない。また、壕からも放り出されたりした。そうして、逃げ惑い、追い詰められて、数多くの犠牲者を出したのである。

こうした糸満市の、沖縄戦の悲劇を伝える場所の中でも、中心的な存在が、沖縄平和祈念公園である。

平和祈念公園は、沖縄平和祈念堂、沖縄県平和祈念資料館、式典広場、平和の礎、国立沖縄戦没者墓苑、各都道府県慰霊塔・慰霊碑など、数多くの施設がある、広大な公園である。

今回は、あまり時間もないので、沖縄平和祈念堂のみ、参拝する事にした。

平和祈念堂から、後ろを振り返ると、広大な公園の敷地を見渡せる。写真中央に、式典会場が見えている。

左の道の向こうに見える、赤い屋根がいくつも並ぶ、塔を備えた大きな建物が、沖縄県平和祈念資料館らしい。

糸満市という街は、心をえぐる、戦跡の街である。しかし、それは直視しなければならない、忘れてはいけない現実だろう。
沈む夕日に、犠牲者の冥福と、世の平和を祈る。

沖縄県全41市町村のうち、28市町村踏破、残り13市町村、達成率68.3%。
九州・沖縄全274市町村のうち、260市町村踏破、残り14市町村、達成率94.9%。
日本全国1741市町村のうち、1720市町村踏破、残り21市町村、達成率98.8%。

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高橋御山人
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