SP企画「航空母艦蒼龍の軌跡をたどる 海軍工廠から潜水艦・大和ミュージアム そして・・」
リスナーさんである蒼龍さん(https://www.nicovideo.jp/user/1684038)のご祖父様が、太平洋戦争中に乗艦されていた日本海軍の傑作中型航空母艦「蒼龍」の建造ドックである呉海軍工廠(広島県)を訪問し、その航跡をたどり、その後、ご祖父様が蒼龍の次に乗艦された戦艦大和についてたどる企画で、蒼龍さんのスポンサーシッププレゼンテーションにておこなうものです。
スケジュール予定
21日(火曜日)
8:00
東京出発
15:00
航空自衛隊 浜松広報館 エアーパーク
22日(水曜日)
浜松→広島移動日
23日(木曜日) ※順不同
大和ミュージアム 呉市海事歴史科学館 (広島県呉市)
てつのくじら館 海上自衛隊呉史料館 (広島県呉市)
三高山砲台跡(広島県江田島市)
サンビーチおきみ(広島県江田島市)
旧海軍江田島兵学校 現海上自衛隊第1術科学校(広島県江田島市)
アレイからすこじま(広島県呉市)
歴史の見える丘(広島県呉市)
屋台通り(広島県呉市)
24日(予備日)
※浜松エアパーク 当日許可申請のため、配信できないことがあります。
※大和ミュージアム 配信許可いただきました。
※てつのくじら館 配信許可いただきました。
※海上自衛隊第1術科学校 配信許可申請中です。
あとは屋外自由施設となります。
蒼龍とは
第一次世界大戦の終結後。戦勝国(日本も含む)は、軍備の増強を進めた。その結果、国家予算の大きな割合を軍費が占め、経済の破綻を恐れた各国は、ワシントン軍縮条約にて、共に軍備制限することを決定した。
その結果、戦艦の保有・建造を著しく制限された日本は、戦艦に代わる戦力として、航空兵力と航空母艦(空母)の増強・新規建造にのりだす。
そのワシントン軍縮条約で定められた空母建造の残り枠(排水量21000トン)を2隻に分け、中型空母蒼龍(そうりゅう)と飛龍(ひりゅう)の建造が開始。その直後、日本はワシントン軍縮条約の脱退を決定、結果としてこの2隻は、拡大設計され、日本海軍の主力中型空母として、1937年(昭和12年)呉海軍工廠にて完成することになる。
完成した蒼龍の様式は、以下のとおりである。
排水量 18,800トン(大和は64000トン 青函フェリーはやぶさ号は2949トン)
速力 34.5ノット(約64km/h) 160,326馬力(大和は153,553馬力)
艦載機 73機(常用57機+補用16機)
兵装 高角砲12門 高角機銃28挺 小機銃6挺
大和よりも馬力のある機関である理由は、空母は速度が出せないと艦載機の発着艦時に支障をきたすためである。(簡単に言うと、空母が高速で移動することで発生する向かい風の場合は発艦時に容易に飛び立つことができる)
また母艦が高速移動することで各地の制空権獲得のための戦闘機や、艦隊を駆逐する攻撃隊を即座に展開させる必要があるためである。
蒼龍の初陣は、1941年12月8日のハワイ真珠湾攻撃である。前11月16日、大分佐伯湾で停泊中にハワイ作戦が明かされ、11月21日北海道択捉島単冠湾に集結。太平洋を長躯して、真珠湾に在するアメリカ太平洋艦隊とハワイ基地を空襲して戦果を上げる。
その後 太平洋ウェーク島(日本の北方)攻略戦に参加したあと、1942年2月になると、オーストラリア本土であるダーウィン攻撃に参加する。これは日本がおこなったオーストラリア本土に対する攻撃として最初かつ最大の攻撃で、オーストラリアの歴史上はじめて外国からうけた攻撃であった。3月はインド洋セイロン島にまで進出し、イギリス軍に圧迫を掛けた。
そして6月5日 中部太平洋ミッドウェー島沖でおこなわれたミッドウェー海戦にて、空母赤城・加賀・飛龍とともに参加していた蒼龍は、日本艦隊全体の偵察/索敵、一瞬の防空体制の穴を突かれ、アメリカ軍ドーントレス急降下爆撃機の1000ポンド(453kg)爆弾3発が命中。そのまま格納庫にある魚雷18本に誘爆し、大火災となった。その後懸命の消火も甲斐無く、日没とともに沈没し、艦長柳本柳作大佐は退艦を拒否し、艦と運命を共にした。
建造からわずか6年足らずのことであった。また僚艦で準同型艦の飛龍もこのあとに沈没している。
※蒼龍さんの御祖父様も沈没時に海に飛び込み、1日漂流されたとのことです。
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