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ドライブ・マイ・カーを観て軽くパニック
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話題の映画「ドライブ・マイ・カー」を観てきました。
鑑賞後の余韻に浸りつつ、こんなツイートを発見。
『ドライブ・マイ・カー』を広島で観ることの幸福を全身で味わった。さっき車で通った道や街が濃厚な映画世界の中に映し出されて一瞬自分はどこにいるのかわからなくなる目眩のような感覚。観終わってまたその道やトンネルを車で通って帰ってきた。映画体験を超えた体験だ。
— 榎本俊二 Enomoto Shunji (@hecky_mitsuo) January 16, 2022
その手があったか、と軽くパニック。もし同じ体験をしていたら、どんなに幸せだっただろう。広島で鑑賞できる方が本当に羨ましい。
そう遠くない将来、ネット配信やDVDが発売されたら、必ず聖地巡礼したいですね。映像を観ながら。もちろんマイカーで。
ぼくらの「どす黒いもの」問題
誰の心にもあるであろう「どす黒いもの」。
というのはちょっと平凡で抽象的すぎるものの、そうとでも言わなければ共有できないものでもあって、なぜなら、その「どす黒いもの」は人それぞれ違うから。また、対話の方法だって決してひとつだけではないはず。
さらに「どす黒いもの」に触れたからといって、触れられた人と触れた人が幸福になるのか不幸になるのかは別の問題。どうなってしまうのかは誰にもわからない。きっと本人たちでさえも。でもそれで良いのだろう。
もらったり、与えたり、失ったり。分かったり、分からなかったりしながらも、時に本心とは違う言葉を告げてしまったりする裏腹さを併せ持つのが人間というもの。やはり、伝わっているのかどうかは決して分からない。
でも、だからこそ、少しだけでも信じることで救われ部分がある。腑に落ちることができる。それが、ちゃんと向き合ったという「印」なのだから。そんな息を呑む映画でしたね。