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田舎の生活・習慣

まえがきbyアラフィフ娘

ヨーロッパにいると日本の文化や風習を妙に懐かしく思うことがあります。今はコロナ禍で日本へ帰国できない、また通常の生活ができないことも拍車をかけているのかもしれません。
日本にいた時は若さもあり、堅苦しい習慣などを面倒に思う時期もありました。が、年を重ねると自分の原点はやはり日本にあるんだなーとしみじみ感じます。

今日は戦争が終わり、母の小学生時代の話です。

1945年昭和20年7月31日、我が家には五人目の子供が誕生した。5人目で初めて男の子を授かり父は嬉しかったのだろうが、42歳の厄年の子供。田舎では厄払いのため、厄年の子供は農道の十字路に捨てすぐに親戚の者が拾いに行く習慣があった。我が家でも俵の上下に蓋をするような大きな俵ぼっちを編んで長男は道に捨てられ、親戚が拾いに行き、父の厄落としの行事は無事に終わった。

それから間もなく8月15日に終戦を迎えた。片田舎のラジオでは雑音だけでだれも理解していなかった。その夜、裏山で数十名の兵隊のテントを張った部隊があり、深夜パンパンと音がしたそうだ。それまで姿を見せていた兵隊さんを次の日からは全く見ることはなかったそうで、そこで戦争が終わったのだと悟った。

翌年昭和21年、この年より6・3制の学校制度となり私は小学校へ入学。白いズック(麻・綿の糸で厚く縫った生地)のランドセルと同様の白靴を履いて行った。地域が広範囲だったため、小学校2年生まで家から15分あまりのところにある分教場があり2教室で80名ばかりが学んでいた。そのころから私は原因不明の腹痛や嘔吐があり、そのたびに学校を休むことが多くなっていた。栄養失調だったのでは?と今にして思う。

村には一軒の小さな医院があり一度だけ連れて行かれただけで、山林で摘んで乾草させたせんぶり(千振)煎じて健胃剤の湯薬を飲まされたが、その薬の苦いこと。飲んでは吐き、その口の中に残った苦みはいまだに忘れることはできない。

学校を休みがちな私を気の毒に思ったのか、おばちゃんは自分のそばへ呼んで、細かい手伝いなど、いろいろ教えてくれた。学校へ行く代わりに、おばちゃんから生活の知恵を学んだ。

そんなおばちゃんとはまた別の思い出がある。
田植えも終わり、夏になっても相変わらず学校を休んで納屋の一間だけの部屋で一人蚊帳(蚊を防ぐため吊り下げて寝床を覆うもの)を吊って私は寝ていた。そして、たびたび出てくる蛇がむき出しの梁にその日も出てきた。くねくねと体を動かし、気味の悪さと怖さで床の中からその動きを見ていた。その光景は何度見ても慣れず、今日も“早くどこかへ去ってくれ”と、願い見つめていた。

が…その日は違っていた。

太い梁に巻き付いた蛇がするんと私の寝ている蚊帳の上へ落ちてきた。蚊帳のたるみで数十センチのところへ蛇は白い腹を見せて、ひとかたまりとなりもがいていた。が、蟻塚のようになった蚊帳のくぼみから出て行けず、私は怖さで静かにそっと寝床から離れはだしで母屋にいるおばちゃんを呼びに行った。
おばちゃんが私の寝床へ来ると、蛇はまだ蚊帳のたるみの中で這い上がろうとしていた。おばちゃんは持って来た竹ざおで数回か蛇をついて、やっとこさ竹の割れたところへ蛇は挟み、引きづって外へ連れていった。どうするのか見ていると、おばちゃんは殺さず、「もう来るなよ」と逃してやった。

その後もその蛇はたびたび登場した。納屋の隣のにわとり小屋に入り込み、にわとりが大暴れしたり、鳴き声をあげたりすると、おばちゃんは飛んで行き鳥小屋に入り、蛇のしっぽをつかんでぶら下げてきた。

どうやって形のまま卵を飲み込むことができたのか不思議に思えたが、蛇の腹には飲み込ん卵二個のふくらみがはっきりわかり
「2つも取られちゃった」とブツブツ文句を言ったが、殺さずにそのまま逃がし、「あのへびは木に登り、体を木に巻き付けて卵をつぶす」と教えてくれた。そして蛇は本当にそうやってつぶして行った。

おばちゃんは私に「あの蛇は家の主だから殺さないんだよ」っと言った。

貧しく大事な食べ物を盗まれても、守り神は殺さないんだと納得し、子供心にもすんなり入っていった。

田舎での疎開生活のおかげで、子供時代を自然の中で過ごし、あのまま東京にいては味わうことのできない体験をし、生きる知恵を得ることができた。が、何度見ても、やっぱりいまも蛇は怖い。(笑)

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