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第一話 戦争そして疎開

母の体験談。記憶力に脱帽です。
以下はすべて実話です。

昭和20年(1945年)春、
東北本線の栃木県下野市小金井駅に
父・妹(2才)・私(5才)の3人は降りた。

朝、東京品川の家から上野駅へ出て汽車に乗り、
何時間かかって小金井駅に着いたのかは記憶にない。

ただ私の一番のおしゃれ着であった
ウール地の濃い黄色のセーラーカラーのワンピース、
ベルトの付いた黒靴で
駅から4キロ奥まった親戚の家へ向かったのは覚えている。

右側に枝を張った大木の松林が続き、
砂利道を歩きジャリジャリと音を立てていたのも、
今でも耳に残っている。

妹はリュックを背負う父の肩車や抱っこをされていた。

なぜ母がいなかったのか後年わかったのだが、
大きなお腹をしていたので
親類の家に先に着いていたそうだ。
母はその年の7月末、5人目の子供(男)を産んだ。


我が家は当時、品川区鎧町の借家に住んでいた。

家は町会のはずれの角地にあり、玄関を出ると道路。
その先は3メートル程の高く赤レンガを積み上げた大きなお屋敷があり、
もう一方はお稲荷さんの祠があり、そこを通り抜けるとプールがあった。

こんな良い環境に建っていた家。
でも今では想像もつかない物が家にはあった。

家に入り奥の部屋の畳1枚を上げ、床板を外すと
少し掘り下げた場所があった。
それが防空壕だ。

毎晩のように空襲でサイレンの音を聞くと
電気に黒い布をかけ部屋を暗くして畳を上げ、
防空壕に逃げ込んだ。
中は鼻をつく湿ったにおいがして、コオロギが飛びまわっていた。

怖いというより、それが当たり前の日々だった。

だが3月10日は明らかにいつもと違っていた。

サイレンは鳴りやまず、
防空壕の先端の隙間から外を見ると
夜なのに空は真っ赤に染まっていた。
今でも鮮明に目に浮かぶ。

そう、それは昭和20年3月10日に東京を襲った東京大空襲だった。

朝までその光景は続いていたが、一夜明けると辺りは焼け野原となり、
我が家一軒だけが焼け残っていた。

3月11日、外に出ると家の玄関を出た所の電柱横に
不発の焼夷弾(しょういだん)が突き刺さっていた。
が、怖いと思わない幼稚さであった。

家から歩いて五分ほどの所には三ツ又(地名)があり、
空の鍋を持って食堂前の長い行列に並んでおぞうせん(おじや)を買った。が、そのおぞうせんは汁だけで
なべ底にご飯粒が泳いでいるようなものであった。

このころはすでに食糧不足で
しかも、配給券がないと生活用品(糸・針まで)に至るまで、
もう何も手に入れる事は出来なくなっていた。

そんな日々が続き両親は田舎へ疎開すれば
食べることは不自由しないと思っていたのだろうが…

そう、父との汽車での旅は旅行ではなく、疎開の始まりだったのだ。

だが、もう日本国中のどこへ行っても
食べ物が余っていることはなかった。

第二話へ続く


あとがきby娘

今の時代と戦中戦後の生活は比べることはもちろん出来ません。
が、母からいつも
「いつ何があっても焦らないように、日持ちする食料は置いておきなさい」
と言われてきました。

初めてロックダウンになった時に、
ヨーロッパでも買い占めが起こり
ペーパー類、小麦粉、玉子、麺類一切
スーパーから消えました。

でも母が忠告してくれていたおかげで
備蓄があり焦らずにすみました。

でも流石にトイレットペーパーが足りなくなったらどうしようって
泣き言を言ったら

「そんなの他の代用品(紙を揉んで柔らかくして使う、
ウォシュレットやビデを使う など)を考えなさ〜い。
今は物はあるんだから頭を使わないと!」
と言われて、それもそうだと変に安心したのでした。

アラフィフですが、まだまだ経験不足で
私はあまちゃんですね。

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