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お金がない生活

まえがきbyアラフィフ娘

母の大嫌いなこと。
それは 約束の時間・期限を守らない ことです。

私は小さいころ、母からこの2つは厳しく教えられました。
しかし、ヨーロッパで生活していると電車・郵便・人との待ち合わせは時間通りに進むことはほとんどなく、どんどんルーズになり、また提出物も期限を過ぎても、正当な?理由があれば怒られることはあまりなく、母の教えを忘れてしまったように思います。が、そんなことはありません。
アラフィフになっても、いまだに怒られてます(-_-;) 
なぜ母がこの2つのことにこだわるのか、今回の話を聞き、理解できた気がします。

今日は戦後の母の小学生時代についてです。

私が2年生になったころだろうか。疎開先の納屋暮らしから、突然10分ぐらい離れた家へ引っ越した。立派でも広い家ではなかったが、新しい木材が使われた家であった。
土地は一反(330平米)余りだったか。奥の方に竹山があり、その手前が畑で家の裏には栗の木が5、6本並べて植えてあった。地元の家からすればまだ小さいものであったが、自給自足を考えてなのか、他に一反の畑三枚とたんぼもあった。

母の2さおの桐ダンスは引っ越した家にも運ばれた。着物7、8枚納まるタンスの引き出しだったようで、姉の話ではそれまではお札が一杯詰められていたそうだ。が、引っ越した時にはお金はどこにもなく、それからがお金に見放された生活が始まったとも言えよう。家の入口の空き地には大谷石が並べて置かれてあったが、以前のような需要はなく雨ざらしになっていた。

私が3年生の時に母は6人目の子供(弟)を産んだ。生活はどんどん窮地に追いこまれ、母の財布の中を覗くといつも空っぽ状態。それを見ると、学校へ持って行くPTA会費20円や給食費50円ほどの金額の集金の話を母には出来ずにいた。

先生は当時そんな生活をしている家庭がかなりいることを理解していた。
なので余裕をもって集金をしてくれていた。締め切り後1週間あまりは毎日先生に「忘れました」と言っていたが、一週間もすると本当の締め切りになり、先生は「明日までに持ってくるように」と、私だけではなく、クラス内の数名に言った。無いお金は無い。が、期限はとうに過ぎている。お金のない事も、期限を守れない事も子供ながらにみじめだった。

そしていよいよ母に話さなくてはと思い切って話すと、母はブツブツ文句を言い、「お前はいつもぎりぎりで言うのだから」と叱られた。
まさに子の心、親知らずである。

そんな時、母は父のもう一軒の親戚へ借金に行き、たいてい1000円を借りてきた。その中から集金分を学校に持たせてくれた。
それが数か月続くと今度、母は弟を背負い東京品川に住む母の姉宅へ借金に行っては、父方の親類で借りたお金を返していたようだ。あの当時は仕方のない事だったが、大きくなったらお金に困らない生活は出来るようになるのか?と子供ながらに漠然と考えていた。

その後も生活は楽にならず、しばらくしてから担ぎ屋(戦後、米など続制物資をひそかに運んで売る人)をしていた姉に変わり、母が6か月余りの弟を背おい負い紐(おぶいひも)の間に細い布袋に米を入れ、2・3カ所に分けて一斗の米を運ぶようになった。姉は小金井の会社へ事務員として働きはじめた。

昭和23小学3年になった私は1里(いちり=4キロ)離れた本校へ通学するようになる。
朝礼時に朝日がさすと整列した子供たちの頭襟首あたりにシラミが這っているのは当たり前だった。我が家では母が大釜に湯を沸かして衣類を煮ていたので、目にすることはなかったが、頭毛シラミが移り目の細い竹くしですいてもらっていた。
学校ではDDTを入れた手で押す噴霧器みたいなもので全校生徒一人ずつ坊主頭の男子には襟首から背中に、女子には頭と背中に吹きかけられ、その日は女子皆が真っ白な頭をして家路に着く姿を思い出す。

学校から帰ると春はわらび取りで“ぽきっ”と折れる音は心地よく、帰ると母が湯を沸かし、灰を入れ湯出てあく抜きをし、洗って水を張った桶に保存していた。

また疎開組の友達と薪拾いや、腕がやっと回るくらいの太い松の木に登り柱枝や松ぼっくりを取り、落としてはそれを拾い籠につめ夕方帰って来た。そこが遊びの場所であった。

冬はかんそう芋作りで一日中サツマイモをふかし、薄く切った芋を屋根にむしろを広げて干し、次の朝水分が残って凍ったシャリ感の芋はおいしかった。
また家敷内の竹林で長い竹を見つけ葉を落とし、物干竿より長い竹馬を作っては梯子の横に並べ、そこから竹馬に乗り移り霜柱の立つ畑の中へ竹馬で一メートルもの大股で歩きまわった。畑なので土地が柔らかくずぶーっと入り竹馬はなかなか抜けない。でも楽しかったし、快感であった。
親も何も言わなかったし、けがもなかった。
おもちゃなど何もなかった時代でも創意工夫をしながら自然の中で暗くなるまで遊んだ記憶は鮮明に残っている。お金には困っていたが、遊んでいる間はすべて忘れることができて本当に楽しかった。

どんなに外で遊んでもけがはしなかったが、相変わらず年に数回胃痛や腹痛で学校を休んでいた。
小5の時、2週間ほど休校している間に分数の基礎の授業があり、後々まで理解できず、根本から解くのではなく、丸暗記しなんとかやり過ごしたが何事も基礎が大切なことだと思う。いまだに分数はコンプレックスになっている。

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