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あなたが今じゃ一番わたしを尊敬してくださらない人ですわ
小学生くらいの三人の少女が車内で激論を交わしている。さそりとタランチュラ、どちらが捕まえやすいかについて。夕方の小田急線。
部屋が蒸し暑いので、涼感を求めて押入れから風鈴を探す。風鈴は見つからなかったが、昔、山寺で買った退魔の鈴があった。窓のそばに吊るしてみる。鈴は鳴らない。風が吹かないから。風一つ吹かない夜。
冷蔵庫にスイカがあったので、塩をふりかけて食べる。もう夏みたい。塩をふると甘みがひきたつことに初めて気付いた人はすごい。幸福の実感を得るためにわざと不幸になろうとする人のようだ。スイカは塩をふりすぎてしょっぱかった。
「いけませんわ」と彼女は言った。「あなたが今じゃ一番わたしを尊敬してくださらない人ですわ」
部屋のテーブルの上には西瓜がのっていた。グーロフはひと切れ切って、ゆっくり食べはじめた。すくなくとも半時間が沈黙のうちにすぎた。
アントン・チェーホフ(著),松下 裕 (翻訳)「犬を連れた奥さん」『チェーホフ全集〈8〉』ちくま文庫,p.476‐477