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知らず知らずのうちにこぼれた涙がいつも一粒乾きかけていた

朝から二台のバスを乗り継いで、かみのやま温泉から蔵王山の登山口に向かう。

そして地蔵山エリアに到着。ロープウェイから降りた瞬間、涼しい。真夏の陽射しを全身に浴びてなお、涼しい。涼しくて嘘みたい、と思った。

外に鎮座する地蔵をやり過ごし、高山植物が生い茂る自然植物園に向かう。目の前を飛び交う小ぶりのトンボたちを手で払いのけながら、小径の散策路を進む。蜜蜂の羽音が耳元でかすかに唸り、アザミの葉先が足首をチクチク刺す。時々、草叢の影から不如帰の鳴き声が聞こえるが、その姿は見えない。ほおーうほけきょ、きっちょんきっちょん、ぴーぴぴぴぴぴ……鳴き声だけが聴こえる。

突然、目の前で爽やかな水色のアゲハチョウが羽ばたいた。ロープウェイ駅舎のポスターに写真が載っていた、浅葱斑(アサギマダラ)という名の蝶ではないか。沖縄からの渡り蝶で、蔵王山ではこの時期にしか見れないという。背後の奥さんに教えようと、あれ、あのポスターの蝶じゃないの?と振り向く。どれ?という彼女の声を聴くや否や、元の場所に視線を戻すが、いつの間にか蝶の姿はなく、足元の青紫の釣鐘人参が小さく揺れていた。貴重な蝶を見逃した彼女は悔しがった。

その後、いろは沼に向かうリフトに乗ると、右手の木陰に群生するヨツバヒヨドリの小さい白い花びらの上で、数えきれない数の浅葱斑が何匹も飛び交っていた。たかが一匹見失って一喜一憂していたさきほどの自分たちは、一体何だったのか。リフト越しに、いくつもの蝶が、水色の美しい紋様の羽を広げたり閉じたりする様をいつまでも眺める。奥さんはスマホで動画撮影する。この光景を見るためならあと3回は同じリフトに乗っても良い、と彼女は言った。

いろは沼の散策から戻り、往路はリフトで上った坂を、今度は徒歩で下りてみることにする。冬はきっと雪一色に埋まるこのなだらかな坂を、薄紅色の草たちが果てしなく埋めつくしていた。名も知らぬその草たちを、昼と夕方の合間、傾きかけた陽の光が撫でるように照らし、坂の上を振り向いても、下を振り向いても、その斜面は静かに燃えているようだった。下り進めると、途中でたんぽぽの綿毛の群生が混じりはじめる。奥さんと一緒に、草叢に腕をつっこんで、綿毛を散らしたりした。

最後に、山のふもとの鴫の谷地沼を散策した。沼の名前も、場所も、斎藤茂吉の歌碑の内容も、具体的な情報はやがて何一つ忘れてしまうような予感がした。代わりに、水辺に点在する孤独な釣り人たちの立ち姿、鴨が泳いだあとの水面の波紋、鳴き始めてすぐ止んだ蜩の声、散歩中の太った白い犬、そばに聳えるホテルの、80年代で時が止まったままのようなレトロフューチャーな外観、そんなうすぼんやりとした記憶だけが、いつまでも忘れられないような気がした。

日帰りの蔵王温泉で寛いだあとは、山形駅行きのバスに乗り、駅ビルでお土産を少し買って、再びバスで仙台駅へと向かう。バスの乗車時間が長かったので、プルーストの『失われた時を求めて』を読み返す。

祖母は美しい顔を太陽に向かって斜めに上げ、私たちの目の前を行き来する。皺が刻まれた祖母の褐色の頬は、更年期を過ぎて、いまや耕作後の秋の畑を思わせる薄紫に近い色に染まり、外出のときはなかばまで上げられた帽子のヴェールで遮られてはいるものの、そこには、寒さもあろうけれど、何か悲しい思いもあってか、知らず知らずのうちにこぼれた涙がいつも一粒乾きかけていた。

マルセル・プルースト (著), 高遠 弘美 (訳)『失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」 (光文社古典新訳文庫)』光文社,p.46


仙台に帰ってくる。昨日の早朝に散歩したときは閑散としていた繁華街が、人々で賑わっていた。土曜日の夜。仙台の七夕祭りが始まる週明けの月曜は、あいにく雨が降るらしい。

旅の締めくくりに牛タンを食べて、東京行きの夜行バスに乗る。夜行バスは体力的にしんどいところもあるけど、安いし、何より開始日の早朝から最終日の深夜まで、たっぷり現地で過ごせるのが良かったね。明日が日曜でほんと良かったね。そんな話を隣の席の奥さんと交わして、夜行バスが出発する。

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