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意図しないものの積み重ね、そこに時間が流れていくことの面白さ

レモン牛乳のパッケージ絵がプリントされた白いTシャツを着て、レモンのように黄色一色の長靴を履いて歩く男性と、横断歩道ですれ違う。

その後、ランチにドトールでミラノサンドを食べながら、Kindleでヴォルテールの『寛容論』を読み始める。実子殺しの容疑で処刑された父親の冤罪事件から話が始まる。当時のパリに生きる読者になったような気分で、事件の顛末を知る。

われわれの理性の力は弱々しく、われわれの法律は不備だらけだ。それは日々実感させられることである。しかし、たったの一票が加わっただけで市民が車責めの刑に処せられるとすれば、市民にとってこれ以上にわが身の不幸を思い知らされる機会があるだろうか。古代ギリシアのアテナイでは、死刑の判決を言い渡すためには、市民の半数プラス五十票が必要とされた。このことから何が言えるか。それは、ギリシア人がわれわれよりもはるかに賢明で、はるかに人間らしかったということである。そして、ギリシアのことをわれわれは知っているが、それはたんなる知識にすぎない。

ヴォルテール (著), 斉藤悦則 (訳)『寛容論(光文社古典新訳文庫)』[Kindle版]光文社,Kindleの位置No.171-177

それはたんなる知識にすぎない。という言葉に目が止まる。賢者は歴史から学ぶ、という言葉を思い出す。歴史を知ることと、学ぶことの間には、隔たりがある。その距離を想う。ヴォルテールの煽りは続く。

時代が異なれば、なすべきことも異なる。ソルボンヌ大学[神学校]は、かつてオルレアンの処女[ジャンヌ・ダルク]の火あぶりを要請し、アンリ三世を国王として認めないと宣告し、かつ破門し、大アンリと呼ばれるアンリ四世を追放したが、だからといって今日ソルボンヌ大学の人間を皆殺しにするのは不条理であろう。ああいう狂乱の時代に、国内で同じような行きすぎを犯した他の団体を、いまになって糾弾しようとは誰も思うまい。そういう糾弾は不正であるばかりではない。それは、一七二〇年にマルセイユでペストが発生したからといって、いまその全住民を駆除しようというのと同じくらい狂気の沙汰であろう。

同上,Kindle の位置No.379-385


夜、仕事を早めに切り上げて、青山ブックセンターに向い、「日記を書くということ」という講演会に参加する。『読書の日記』の著書 阿久津隆 と、小説家 滝口悠生のトークイベント。

日記を書き続ける動機について「自分の文章が好きだから。もっと読みたいから、(日記を)書く量がどんどん増える」と、はにかみながら、それでいて迷いなく語っていたことが印象に残る。彼が好きな彼の書く文章を、この会場にいるおよそ30人もおそらくまた好きなのだ。1000頁に及ぶ分厚い『読書の日記』の本を手にしながらトークに聴き入る他の参加者の姿を見て、その本のずっしりとした重みを所々思い出しながら、話を聴く。

『読書の日記』には、著者がその日に読んでいる本の文章がよく引用される。引用したまま、特別なコメントを補うことなく終わることがよくある。引用しっぱなし。私は、文章をその素材のままにごろんと目の前に放り出すような、この引用の仕方は良いと思った。本を読んだら感想を書かなければ、意見をうまくまとなければ、という謎の責任感から解放されても良いのだ、ということが私にとっての第一の発見。引用した文章をただ並べるだけでも、書き手が意図していなかったような何かが立ち上がる瞬間がある。DJの選曲や雑誌の編集、アート作品のキュレーションに通じる何か。それが第二の発見。『読書の日記』を読んでいると、そのような瞬間がたくさんある。「意図されないものの面白さ。意図しないものの積み重ね、そこに時間が流れていくことの面白さ。」という言葉が、その瞬間の核心を捉えているのではないかと思う。

(そうした日記の面白さに対し、滝口さんは「小説は、虚構ではあるが、それを積み重ねたときにrawなものが立ち上がる瞬間がある」と語り、その口調は静かながら、小説家としての矜持と熱量を最も感じさせる瞬間でもあった。)

「意図しないものの積み重ね、そこに時間が流れていくことの面白さ。」という言葉を聞いて、鎌倉のミルクホールの落書き帳を読みながら飲んだコーヒーの味わいが蘇った。ミルクホールに来店した客が、A4サイズの大学ノートに、文章や絵を自由に書き綴った落書き帳。特に2,30年前の落書き帳をいくつか読んでいると、当時のお客さんたちが、ミルクホールで味わったコーヒーやプリンの感想、鎌倉観光のちょっとした所感、恋愛や家族関係などの人生の悩み、そういったものを不連続に綴っている手書きの文字を読んで、顔も知らないこの書き手たちは今、どのような場所で、どんな風に暮らしているのかな、などと思いを馳せながら、黄ばんだノートの頁をめくったことを思い出す。そこには、時間が流れていくことと、流れていったことの確かな手触りがあった。

トークイベント司会者が紹介していた手帳類図書館にも、今度行ってみたい。一般の人々が、誰にも公開しないつもりで書いた日記や手帳。それらを館長が買い取り、公開しているという。ミルクホールで落書き帳を読んでいた時間と『読書の日記』を読んでいる時間、それらと地続きな何かがありそうな予感がする。

日記は、小説やその他の形式の文章では書き留めようとは思わない些末な記憶を書き留めることができ、それらが、考えても思いつかない、フィクションでは叶わないリアルさを生む。みたいな話があり、そこから、文章以外の日記の記憶喚起力について話題が発展する。文章は、言葉に表すことによって記憶が固定されてしまうがために、そこから零れ落ちてしまう記憶があるという。きちんとした文章よりも、単語を列挙したメモや箇条書きのように、余白のある言葉の連なりの方が、記憶喚起力が高いのかもしれない。例えば下記のような。

そんなに細かく書かないのよ。メモみたいなもん。今日もこれだけ、と言ってお母さんは私に日記帳を見せてくれた。「朝食、パン。宇都宮で伊知子・一瀬くんと合流。袋田の滝、白河の関、会津若松。雪。伊知子、今年入籍の予定。」

滝口悠生『茄子の輝き』(新潮社) p.111

あるいは文章以外のもの。例えば、音や写真。ライフスライスカメラというものが紹介される。衣服に身に着けておくと、何分かに1回、自動的にシャッターが切られるカメラ。予想しないものが写る面白さがあるという。記憶を喚起する喜びってあると思う。あると思うが、その喜びは一体何なのか。記憶を失う恐怖と表裏一体か。

最後に司会者がすすめていた、つげ義春の日記が面白そう。悪夢のような、読み手の解釈を拒む文章が断続的に並べられているという。他に類例が思いつかない日記だという。阿久津さんが薦める日記はヴァージニア・ウルフの日記(お金のやりくりや、作家としての自身の世間の評判を気にするみっともなさが良いと)で、滝口さんはスーザン・ソンタグの日記(きっちりと構築された彼女の小説とは異なる、自然体の魅力がある)とのこと。

帰宅し、奥さんと一緒に、翌晩出発する旅行の準備をする。リュックに衣服やモバイルバッテリーなどを詰め、旅に持っていく本を絞る。「失われた時を求めて」と「神曲」、ナショナルジオフィック最新号。

旅をするときに最も胸が躍るのは、旅を始める前日の夜。旅の終わりを予感して哀しくなるのは、旅の終わる前日の夜。それを知っていてなお、旅することをやめることはできない。

今日の夕方にSmart Newsのトップに並んだニュース。

・サービス終了の家事代行「DMM Okan」理由は「需要高すぎ」(ITmedia NEWS)
・また40℃突破 多治見で40.2℃まで上昇(ウェザーニュース)
・東京医大、女子受験者を一律減点 受験者側に説明なし(朝日新聞デジタル)


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