わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない
1.
通った中学はカトリック系のミッションスクールで、毎週「宗教」の授業があった。神父兼校長が週に1回、生徒に新約聖書を解説する。信者でもなければ興味もない私には、ぼおっとしながらただ時が過ぎるのを待つ時間だった。
毎回、授業の感想をレポートに書いて提出する必要があった。ある日のレポートに、神父に質問するつもりで次のようなことを書いた。イエスはなぜパンとぶどう酒を自分の肉体と血に例えたのか。食事の場で語るにはグロテスクだし、唐突で不気味ではないか。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。
また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。
イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
マルコによる福音書第14章22節-25節、『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年より
翌週返却されたレポートには、神父からの赤字コメントで「イエス様はいつも優しく私たちを見守っています。だから怖がる必要はありません」とだけ追記されていた。
2.
東京都写真美術館の企画展「TOPコレクション イメージを読む 場所をめぐる4つの物」に、軍艦島の写真が数点展示されている。炭鉱が閉山する前の島民の暮らし。その静けさ。廃墟となった現在の島よりもおそらく、と思わせるほど。
奈良原一高 《アパートの道》〈人間の土地 緑なき島ー軍艦島〉より,1954-56年,東京都写真美術館蔵
奈良原一高が1956年に初個展で発表したシリーズの一部である。シリーズのタイトルが「人間の土地」。美術館に向かう道、サン=テグジュペリの同名小説『人間の土地』を読んだばかりだったので、偶然の一致に驚く。
彼の写真を次々眺めて、サン=テグジュペリからの影響は間違いないように思った。通じあうものがある。極地の自然の厳しさと美しさ、その中で生きる人間の卑小さと気高さ。
他にどのような写真を撮っているのか知りたくなる。ミュージアム・ショップで奈良原一高の写真集『王国 Domains』を手に取り中身をめくると、当別トラピスト修道院の写真が掲載されている。最近『魂のゆくえ』という映画でトラピスト会の存在を知ったばかりなので、偶然が再び重なったことに改めて驚く。
3-1.
映画『魂のゆくえ』は、ニューヨーク州北部の小さな教会に勤めるトラ―牧師を主人公に据える。
彼は毎晩、手帳に日記を書く。そして、一年分の記録がたまると手帳ごと燃やす。書きためては燃やす、を毎年繰り返している。日記を書く習慣は珍しくないが、書きためた日記帳を定期的に処分する習慣は珍しい。
私も日記を付けたことがある(3ケ月で挫折したが)。日々の生活の証が目に見える形で蓄積されると、それなりに達成感を感じるものである。たとえしょうもない中身であったとしても。
燃やすことないのに、と思う。彼はなぜ、日記帳を毎年処分するのか。主人公の人物造形に対する興味が、この映画を観るきっかけとなった。
3-2.
映画の序盤、トラ―牧師は環境活動家のマイケルと面会する。彼は温暖化によって荒廃する地球の未来を憂慮するあまり、妊娠中の妻メアリーの出産に反対している。
「2050年、僕らの子どもが33歳になったとき、地球はどうなっていると思う? そして『パパは全部知ってたんでしょ?』と聞かれたとき、僕はどう答えたらいい?」
静けさに、一触即発の気配が漂う。
トラ―牧師はマイケルの質問に答える代わりに、自分の話を始める。息子がイラク戦争従軍中に戦死したこと。息子に従軍を薦めたのが他ならぬトラ―牧師であったこと。当時、戦争がこの国のためになると本気で信じていたこと。彼は今も後悔していた。もしあの時、息子に従軍を薦めていなければ、と。
トラー牧師は、続けてマイケルに神の教えを説く。息子の死を告白したさきほどに比べると、トーンダウンする。彼自身、神の言葉に説得力がないことを自覚しており、牧師という立場上、仕方なく説教をしているように見受けられる。自分でも納得していないことを相手に説く必要に迫れらた経験がある人なら、いたたまれない気持ちになるかもしれない。
その間、マイケルは黙ってトラー牧師の言葉に耳を傾けている。彼は何を考えていたのだろうか。心に傷を負う同類に対する共感だろうか。役に立たない説教をする神の代理人への失望だろうか。
その晩、トラ―牧師はマイケルをうまく導けなかった無力感を日記帳にぶちまける。信仰心は揺れている。おそらく、息子が死んだその日から。まるで自罰行為のように酒を痛飲し、キッチンで吐いた反吐には血が滲んでいた。
3-3
自分の苦悩を日記に認める。文字にすれば、内面を客観視しやすくなる。日記を書く行為によって、苦悩と向き合えるようになる側面はあるだろう。
しかし、向き合い続けても乗り越えられない悩みや苦しみもあるのではないか。苦悩に向き合い続けた毎日の記録は、苦悩を克服できなかった毎日の記録でもある。これだけ苦しんでいるのに、この苦しみにはどうやら終わりがない……。無力感が募り、抑うつした気分になる。その証跡が日記帳だとしたら、手元に残しておきたくない気持ちも分からないではない。だから日記を燃やすのか?
本当は、解決の難しい問題は逃げても良かった。しかし彼は問題から逃げることができない。日記帳をいくら燃やしても、彼は再び日記を書き始める。
日記に書きためては燃やす。自己完結した習慣を繰り返しながら、トラー牧師の苦悩は深化する。その深みに囚われた彼の魂は、やがでゆくえを見失う。この映画は、救いのない苦悩に嵌る人間がもがく姿が普遍的に描かれている。トラー牧師の囚われた魂は最後、突破口を見出すのだが、そこに至るまでの魂の軌跡が、轍のように心に跡を残す。
4.
トラ―牧師は劇中、トーマス・マートンという作家の言葉をよく引用する。調べてみると、彼はアメリカのカトリック教会厳律シトー会の修道司祭で、実在した人物のようである。この厳律シトー会の別称が「トラピスト」である。
トラピスト会の修道院が北海道にある。それが、奈良原一高が『王国 Domains』で取り上げた当別トラピスト修道院である。1896年にフランス人宣教師たちによって創立された当時日本で唯一のトラピスト男子修道院であり、「灯台の聖母トラピスト大修道院」とも呼ばれている。
同修道院は、俗世間から隔離された異郷でもある。本土から隔絶された軍艦島の光景に相通じるものがある、かもしれない。
石の壁によって囲まれ、一般社会とは交渉を断った「祈れ、働け」の生活である。修道院生活は、世俗を離れて神への奉仕に自らを捧げ、自他の救霊のために働く。聖ベネディクトの戒律が基本となり、最も内的な生活に適した方法として沈黙の規則がある。言葉の代わりにトラピスト会共通の暗号(手まね)を用いる。午前2時半から午後8時まで、鐘の音を合図に厳格な日常を送る。主に祈祷を受け持つ歌隊修士と、主に労働手仕事を受け持つ労働修士に大別され、農耕・牧畜・木靴のサボ作りもすべて自給自足の生活でらう。そこには終始祈りがある。
奈良原一高『王国 Domains』復刊ドットコム,p.200,蔦谷典子の文章より
『王国 Domains』の写真は〈人間の土地〉シリーズ以上に静謐である。修道院の内側の世界は、美しい沈黙が支配する。祈りを捧げ、畑仕事に勤しむ修道士。無人の廊下、飾り窓、聖母像。丘から見渡す海峡。その海は、きっと目が醒めるような群青色だろう。白黒写真ではあるが。
宣教師ならば、布教して世の中に信仰を広める使命があり、社会と接点もあって存在意義がわかりやすいが、修道士は社会から隔絶された自給自足の生活を送り、世界のために只々祈るだけの存在である。それが、奈良原には不思議に思えた。そのような人間のあり方に対して、確証を見出したいと思ったのである。
同書,p.199
5.
南米のアマゾンに暮らす少数民族ピダハンは、他に類を見ない独自の言語を持つ。彼らの言語は現在形しかなく、過去形も未来形もない。「過去」と「未来」の概念がないのだ。「左右」の概念も「数」も「色」の名前もない。基本、抽象概念がない。自分たちが直接見たものしか信じないため、噂もなければ民族の創生神話も無い。「神」の存在などもちろん信じない。
ピダハンたちは他の社会から完全に隔絶されていた訳ではない。数百年に渡り、キリスト教の伝道師が彼らの村に布教に訪れている。布教はいつも失敗に終わる。所謂「近代文明」と接触しても、彼らは自分たちの文化を変えなかったようだ。
言語人類学者ダニエル・L・エヴェレットが、彼らと接触し、彼らの言語、言語の奥にある彼らの内的世界を徐々に明らかにする。その過程を詳らかにしたのが、彼の著作である『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』である。
当時、NHKの特番で特集されたヤノマミ族などが話題になっていた時期だったので、その類の本として読み始めた。つまり、私たちの常識とは全く異なる少数民族の異文化を紹介して、読者の価値観を揺さぶり、ものの見方や考え方の脱構築を促すような。
しかしこの本は単なる異文化紹介本ではなく(そういう本としても十分に楽しめるが)、著者自身の信仰の挫折を告白する本でもある点がユニークである。著者はキリスト教福音派の伝道師だった。アマゾンの奥地までやってきてピダハンの言語研究を始めたのも、布教活動の一環だった。彼は自分の「神」を信じさせようとした相手によって自分の「神」を捨てることになり、無神論者になったのである。
なぜ彼は信仰を捨てたのか。それは、「神」の概念を持たないピダハンたちが、既に十分「幸せ」そうに見えたからである。
6.
映画『魂のゆくえ』のパンフレットに、ポール・シュレイダー監督が本作を作り上げるためにインスピレーションを受けた映画作品を複数挙げている。ロベール・ブレッソン監督『田舎司祭の日記』、カール・テオドア・ドライヤー監督『奇跡』、イングマール・ベルイマン『冬の光』、アンドレイ・タルコフスキー『鏡』と『サクリファイス』、パヴェウ・パヴリコフスキ監督『イーダ』等など。
『魂のゆくえ』鑑賞後のおよそ1カ月間は、毎週休日前の深夜に自転車でTSUTAYAの店舗に通い、上記作品を可能な限りレンタルして観る生活が続いた。(余談ではあるが、映画を観ている時間よりも、TSUTAYAに向かう夜道を自転車で疾走するときの、これから何の映画をレンタルしようかウキウキしている時間の方が高揚しているかもしれないな、と思うことがある。)
『田舎司祭の日記』や『冬の光』あたりは、もうこれ『魂のゆくえ』まんまじゃないか……と思うくらい、私にとっては同じ映画のように感じた。信仰の挫折がある。私は宗教映画に興味があるのではなく、生きる指針を失う人びとがもがき苦しむ映画が好きなのかもしれない。面白い/面白くない、楽しい/楽しくないの評価軸を超えて、何故か心惹かれ、心に残る。
そして、それらの映画をたくさん見てふと気づく。似たような映画を何度も繰り返し観てしまう私は、似たような悩みを日記帳に何度も書き綴ってしまうトラ―神父に、自分の似姿を見出していたのかもしれない。逃げずに掘り続けばその正体が明らかになるかもしれないが、気が付いたときには陥穽に嵌まって抜け出せなくなっているかもしれない。
それに気が付いたとき、私は宗教から離れるなら今だ、と感じた。こうして、深夜のTSUTAYA通いの習慣は途絶えた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?