捉えなおし、語りなおしながらも、ともに生きつづけなければならない類のもの
傘を持って出掛けた日に限って、雨が降らない。
遅めのランチから戻るオフィスのエレベータの中、相乗りした見知らぬ男性二人が、お互い親しげな様子で会話を始める。
「休日はどこで過ごしてましたか?」
「関西ですよ」
「へえ。何してたんですか?」
「日本経済の支援!」
「そうですか」
「日本車をレンタルして、大阪や京都をドライブして」
「甲子園には行きましたか?」
「服を脱いでも脱いでも暑くて、大変でした」
途中の階で、二人とも笑顔のままエレベータを降りて行った。話が嚙み合っていないような気もしたが、片方が英語、もう片方が日本語で話していたので、もともと二人は言語の壁によるすれ違いは承知、話が噛み合うことより、言葉が往復することそのものを楽しんでいたのかもしれなかった。片方の男性が満面の笑顔で言い放った「サポーティング、ジャパンエコノミー!!」という言葉を、私も頭の中でつぶやいてみる。
今朝の天気予報で注意喚起していた夕方の雷雨は、夜になってもやってくる気配がない。帰宅して夕食を食べたあと、奥さんと近所の散歩に出かける。湿り気の帯びた夜の街。台風がまた近付いているという。今回の旅行で余った現金を銀行口座に戻そうと、近所のATMに立ち寄る。最近は電子マネーで全ての生活が事足りる日常、ゆえに現金は非日常。余分な現金が手元にあると、そわそわする性質に生まれ変わりつつある。
その後ジムに行って読書。中村寛『残響のハーレム』の続きを読む。
カリルの口からその名が出たションバーグ黒人文化研究センターには、膨大な歴史的資料が収められている。そこには、マルコム・Xを含めた幾人かのアフリカン・アメリカンについての情報や、彼らが政府機関や警察から法のもとで受けてきた暴力的介入の痕跡が記されている。それはたしかにアフリカン・アメリカンの歴史かもしれない。しかしそれは、過去にあった出来事であり、すでに起きてしまったことの集積なのだ。
他方でカリルにとっての歴史とは、学習や研究の対象になるものではない。分析や理解を最終目標とするものでもない。理解しようと試みることはあっても、理解しおえた時点で、忘れ去ることのできるものではない。それは彼が毎日の生活のなかで、捉えなおし、語りなおしながらも、ともに生きつづけなければならない類のものである。
中村寛『残響のハーレム』共和国,p.87
毎日の生活のなかで、捉えなおし、語りなおしながらも、ともに生きつづけなければならない類のもの。過去に囚われずにいられる人間なんているだろうか。「ともに生きつづけなければならない」という言葉の、諦めと希望の入り混じった響き。最近読んだグレアム·スウィフトの小説『ウォーター・ランド』のある一節が、蘇る。
歴史とは、そもそも不完全な知識に基づいて企てられた行いを、こちらも不完全な知識に基づいて説明しようとする、成功の見込のない試みなのである。それゆえ、歴史がわれわれに教えてくれるのは、<救済>への近道や、<新世界>をつくるための妙案ではなく、ただ根気よく辛抱づよくなんとかやっていく術だけなのである。
グレアム·スウィフト(著), 真野 泰 (訳)『ウォーターランド』新潮社
就寝前にTwitterを眺めていたら、『物件ファン』というサイトの記事を引用したつぶやきが流れてくる。町屋や古民家等のリノベーション物件に特化した不動産紹介サイトのようで、掲載されている物件の記事をいくつか読んでみると、どの物件も、ここに住んだらどんな暮らしだろう、と想像を掻き立てられるものばかり。物件の紹介記事は、素朴であること、その価値を極めるために、言葉を研ぎ澄まそうとしている人の文章のよう。その読み心地は、『孤独なグルメ』の五郎が美味しい料理を食べている時の心の声と、どこか似ている気がする。
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