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こうした床屋が人々の社交場になっている

東京の空気は、早朝から蒸れている。

あちこちに祭りの屋台の骨組みが残る、誰もいない商店街を抜けて家に帰る。昨晩の夜行バスの疲れが残っていたが、爽快な気分になりたくて、そのままジムに行く。

ジムのテレビのチャンネルを回すと、キタキツネが湖畔で、湖をじっと見つめている。勢いよく顔を湖面に突っ込んだかと思うと、30センチくらいの魚を一匹、口に咥えていた。北海道の屈斜路湖の自然をテーマにしたNHKの番組のようで、早朝の雲海の景観を挟んで、湖面に浮かぶモンカゲロウの幼虫が羽化する場面が流れる。羽化したばかりのモンカゲロウは、水面からはたはたと羽ばたいて、湖畔の木々の枝にぶら下がる。あと数日の命の彼らには、時間がない。そして夕方の屈斜路湖。橙色に輝く湖の上で、無数のモンカゲロウが飛び交う様子が映る。雄は上下に飛んで、雌に求愛する。つがいになった雄雌は、湖面に卵を産んだあと、お互いの体を上下に重ねたまま、竹とんぼのように上昇して、夕焼けの空に消えていった。「さわやか自然百景」という番組タイトルが最後に表示される。

帰宅してお風呂に入り、ベッドで泥のように眠る。昼過ぎに目を覚ます。商店街の夏祭りはもう始まっていて、奥さんと出店を物色に行く。容赦のない陽射しで空気が緩んでおり、去年より出店の数が少ない。炎天下の中、鉄板の上で焼きそばやたこ焼きを作る出店の方々に対し、心の中で敬意に近い同情。商店街で最も賑やかな場所は、冷房の効いたコンビニだった。去年我が家で好評だった鳥皮のからあげを去年と同じ出店で買って、家で食べる。山形土産のこだま西瓜も切って、茹でた枝豆と一緒に食べる。

そのあとは部屋で日記を書いたりして過ごす。夜、再びジムに行って、クロストレーナーをやりながら、積読だった中村寛『残響のハーレム  ストリートに生きるムスリムたちの声』を読み始める。

 その日もハーレムの床屋にむかっていた。
 暖かでおだやかな日曜日の午後に、ハーレムの一一六丁目のストリートまであるき、ひときわ目立つモスク、「マスジッド・マルコム・シャバ―ズ」のまえに立った。めざす床屋は、そこから数ブロックほど離れた場所にある。
 床屋にむかったのは、髪を切るためではない。少し前に知り合ったばかりのハミッドにもう一度会うためだった。ハミッドは、ハーレムに生まれ育ったアフリカン・アメリカン・ムスリムの男性で、フィールドワークを開始して偶然知り合うことになった。

中村寛『残響のハーレム』共和国,p.19
ハーレムにはじつに多くの床屋がたち並ぶ。ひとつのブロックに数軒の床屋がひしめきあっていることさえある。目的の床屋もこうしたいくつもある店のひとつだった。ごくありふれた、古くからあるたたずまいの店構えで、一見して変わったところはない。あとから知ることになるのだが、こうした床屋が人々の社交場になっている。もちろん髪を切りに来る人もいるが、立ち寄って友人の姿を探したり、そこで長いこと話し込んだりする人が多いのだ。

中村寛『残響のハーレム』共和国,p.22

たしか日本でも、私が幼い頃は、街の床屋さんが近所のおじさんたちの社交場になっていた雰囲気があった。ような気がするが、このエピソードに引きずられて、無意識のうちに自分の記憶を捏造しているのかもしれなかった。あいまいな記憶を手繰り寄せながら、床屋に立ち寄って友人の姿を探したり、そこで長いこと話し込んだりする人々の姿を想像する。

大学院に入ってからアメリカン・アフリカンによるイスラーム運動を研究してきた僕が、ハーレムでのフィールドワークをはじめたのは、九・一一の約1年後だった。イスラームに関する反応はには、ヒステリックで感情的なものも多く、社会全体にピリピリした緊張感が漂っていた。当時胸に抱いていた問いはきわめてシンプルなもので、脅威論などさまざまな偏見とともに受けとめられたイスラームを、アフリカン・アメリカンたちがどのように解釈、信仰、実践しているのか、というものだった。それをこの眼で捉えたいと思ったのだ。この社会のなかでしばしば大きな障壁と闘わざるを得なかったアフリカン・アメリカンが、「ごく普通の生活者」として地域のなかでなにかを想い、イスラームになにを読みとっているのか、彼らのイスラーム観や宗教観、世界観はどのようなものであり、それはどのような感覚や感性によって支えられているのか、そして彼らはどのような所作をともなってこのような語りを紡ぐのか、そんなことが気になっていた。

中村寛『残響のハーレム』共和国,p.24-25

そのあと、マルコム・Xで有名なネイション・オブ・イスラーム等、アフリカン・アメリカンの団体の歴史の説明が続く。この地区の背景を説明する硬質な語り口から、著者の研究者としての誠実な態度が窺える。居住まいを正して、本を読み続けた。

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