『笑いのカイブツ』を見て
久しぶりにこれだけヒリヒリする映画を見て、ああ。日本映画好きだなって忘れていた自分の感覚を呼び起こされた映画でした。
笑いに取り憑かれた男、ツチヤタカユキを岡山天音(おかやまあまね)が演じる。
胸の奥にある熱い思いがどうしようもなく溢れ出して土屋という一人の人間の中で抱えきれない怪物となって、もっともっとと自分を追い詰める。
ギリギリ自分の中だけでその思いをギャグ1000本ノックやら、ハガキを送る事で少しずつ解放して何とか均衡を保っていたのに、世間や人間関係というもので、いとも簡単にその均衡が崩れてしまう。
単純にお笑いと言うものがしたいのに世の中はそれだけでは生きていけないと言うジレンマ。
土屋という人間が弱いのではなく、土屋の中にあるお笑いという物への思いが大きすぎて膨らみすぎて大きな塊となり、怪物となって、土屋自身が手に負えなくなってしまう。
お笑いなのに、全然笑えなくなってくる焦燥感と絶望感と怒りと悲しみ、苦しさが天音くん演じる土屋からビシビシスクリーンから伝わってきて、そんな泣く映画じゃないだろうに後半ずっと涙が止まらなかった。
でも、彼の背中を摩りながらピンクが「俺は、お前が羨ましい。」という台詞はまさにこれを作ってる監督の言葉であり、見ている私たちの言葉を代弁してくれた様に感じた。
苦しくて仕方ないだろう。
解っているけど、そこまで自分を曝け出し、捧げられる土屋がカッコよくて羨ましかった。
生活をする、苦しい事、やりたくないけどやらなきゃいけない事。
20歳になり、世間で言う常識を一切ぶっ飛ばし、好きな事に全力を捧げられる人間はどれだけいるだろうか。
年齢を重ねれば、その割合がどんどん減る。
解ってる。でも。と理由つけて動けなくなるのは当たり前だと自分を納得させる。
みんなの心にも、それぞれ土屋のような怪物を飼っていなかったか?
私は10代20代、飼っていた。自分を支配するくらい強大な怪物を飼っていた。
私ごとですが、結婚して子供を産み、その怪物を呼び起こせば、私一人でも抑え込むのが必死なのに家族が居て、両方が成り立つのだろうか?という思いが強くあり、結婚をしたと同時に私の中では封印した。
と思っていたが、それから15年以上の歳月が過ぎ、私の中でこの怪物の封印が解かれ様としている。
そんな自分が今この映画をスクリーンで見れた事は、きっとそう言ったタイミングでもあり、確実に大きな影響を受けたに違いないと、自分の胸の真ん中に込み上げる思いがそれを実感せざるおえない。
熱い思いが詰まった映画だった。
苦しくて仕方ないけど、簡単にできることほどつまらないものはないと思っている。
困難だから惹かれ、満足する事なく欲望が止まらないのだと。
『お前が羨ましいよ。ツチヤ。』
ピンクの台詞に涙が止まらなかった。
ラン丸。