二度寝して愛された記憶を思い出した
朝、いつも通り起きてむすめの朝食と弁当をつくった。むすめを送り出してから燃えるゴミを捨て、お湯と麦茶を沸かしてから二度寝した。
お腹の底がモヤモヤと重かった。眠りの底に引きずられるような深い眠りだった。いつも排卵日近くにこういう日がある。今日はその日だった。9時に猫と一緒に布団に入り、正午に一度目を覚ましたが、どうしても起きられなかった。何度も夢の中に引きずり戻されて夢の続きを見た。結局14時前まで寝て、猫の水分が心配になって起きた。部屋の中にいるはずの猫はどこにいるかわからず呼んでも出てこなかった。
夢の中でわたしは父親の実家にいた。県のはずれの山の上にあるポツンと一軒家。夢の中に父親はいなくて、父の兄がいた。父の兄は実家の離れに住んでいて、そういえばいつもわたしに優しかった。わたしは何も考えず「おじちゃん」と呼んでいたけれど、きっとあのころおじちゃんはまだ20代か30代前半だったのではなかろうか。
夢の中のおじちゃんは大人になったわたしを見てものすごく嬉しそうに笑った。わたしはおじちゃんの胸の中に無邪気に飛び込んだ。
そしてわたしはおじちゃんに愛されていたことを知った。
現実にはそんなふうに甘えたことはない。わたしは小さい頃から甘え下手で、それは両親がわたしのスキンシップを拒んできたからで、だからわたしは誰かに抱きつくことは許されていなかったのだ。
でも夢の中でわたしはとても無邪気に自然におじちゃんに抱きつき、そこには一切の性的なものはなく、ただ子供として愛された記憶だけがあった。
あぁ、そうか。わたしは愛されたことがあったのか。こんなふうにちゃんと可愛がってもらっていたのだ。いまの今まで忘れていた。
父の兄はわたしが小さい頃はまだ独身で、わたしたちが訪ねていくと、わたしと妹を車に乗せて近所のスーパーに行き、好きな文房具を何個でも買ってくれた。わたしの育った家は当時そんなに裕福ではなかったので、好きなものを好きなだけ買ってもらうなんてそんな夢みたいなことは、おじちゃんとスーパーに出かけるその時だけだった。それがいつも嬉しくてたまらなかった。
おじちゃんはわたしが中学校に上がる頃、気の強い年下の女性とお見合い結婚をし、ほどなくして息子が生まれた。その頃からわたしは思春期に入り家族と出かけることはほとんどなくなったし、母と父の折り合いもどんどん悪くなったことで、父の実家に行くことはなくなった。そのまま両親が離婚してそれ以来おじちゃんには会っていない。
生きていれば今頃、おじちゃんは70歳近いはずだ。どんなおじいちゃんになっているのだろうか。
優しかったおじちゃん。会いたいような、でも会うのが怖いような。
よい思い出はよい思い出のままで、そっと胸にしまっておきたい気もする。