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今日の三題噺:第二十一夜「立春」「万年筆」「タロットカード」
1️⃣
今年も、春が来るらしい。
立春だそうだ。ニュースキャスターが、明るい声で告げていた。まだ寒さは厳しいけれど、たしかに日差しは少しずつ長くなっている。
私は、いつものようにコーヒーを淹れた。朝のルーティンは大事だ。豆を挽く音、湯を注ぐ音、立ちのぼる香り。何も変わらない、変わるはずのない、私の日常。
窓の外には、東京の街が広がっている。ここは都心のタワマンの30階。遥か下では、人々が忙しそうに行き交っている。春が近づいていることを、誰もが少しずつ意識し始めるころだろう。
私はふと、ダイニングテーブルの上に置かれた万年筆に目をとめた。
つややかな黒い軸。金色のペン先。
彼のものだった。
「ねえ、あなた。これ、まだ使うの?」
もちろん、返事はない。
私は、万年筆を指先で転がしながら、彼のデスクへと歩いた。
2️⃣
彼がこの部屋に住むようになったのは、ちょうど一年前の春だった。
初めは、そわそわしていた。家具の配置もなかなか決まらず、落ち着かない様子だった彼が、いつの間にかこの部屋に馴染んでいくのを、私はずっと見ていた。
でも、私は知っていた。
彼がここを去ろうとしていることを。
数日前、彼は机の引き出しにマンションの売却資料を入れた。
万年筆で何かを書いたあと、深いため息をついていた。
「そんなに、この部屋が嫌になった?」
私は静かに問いかける。もちろん、返事はない。
だけど、私はもうわかっていた。
彼はここでの時間を手放そうとしている。
私との時間も——。
3️⃣
デスクの引き出しをそっと開けると、マンションの売却資料の横に、タロットカードが一枚だけ置かれていた。
「……これは?」
それは、「愚者」のカードだった。
「愚者」——始まりと旅立ち。新しい世界へと踏み出す者。
彼がこのカードをここに置いた理由はわからない。
誰かに占ってもらったのか、それとも偶然だったのか。
それでも、このカードが意味するものは一つだ。
彼は新しい場所へ行く。
私はタロットカードを指でなぞった。
「そんなに、ここを離れたい?」
そう呟いたとき、何かが喉の奥に詰まるような感覚がした。
胸が痛い。息が苦しい。
——あの日と同じだった。
4️⃣
私は、万年筆をゆっくりと引き出しに戻した。
どうせ、もう必要ないのだろうから。
だって、彼はもうこの部屋にはいない。
あの夜、タワマンの30階から飛び降りたのだから。
——そして、私がここにいるのも、その夜からなのだから。
―おしまい。―
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