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今日の三題噺:第三十一夜「カーナビ」「しゃぼん玉」「古い靴」

「人は、いつも目的地を求めます。
行きたい場所、大切な人がいる場所、戻るべき場所——
けれど、戦争は、そのすべてを奪い去ってしまいました。

行き先を示すカーナビ、風に消えるしゃぼん玉、そして、ボロボロの靴。
これは、すべてを失いながらも、なお歩み続ける人間の物語です。」

1️⃣

カーナビの画面が、もう何日も同じルートを示している。

「目的地は前方3キロ先です」

カーステレオから流れる電子音が、エンジンの低い唸りとともに響く。

ヴォロディミルはハンドルを握りしめたまま、ルートを見つめていた。

前方3キロ先。

そこには、もう何もない。

戦争が始まって2年、彼が住んでいたハルキウの街は何度も攻撃を受けた。
ロシア軍が撤退した後も、ミサイルは時折降り注ぎ、建物の半分以上が瓦礫と化していた。

それでも、カーナビは**「目的地は前方3キロ先です」**と告げ続ける。

そこは、かつて彼が家族と暮らしていたアパートの場所だった。

「……このまま行っても、何もないさ」

隣の席で、アンドリーが呟く。

「お前は行くのか?」

ヴォロディミルは少し考えて、静かに首を振った。

「行かない。でも……どこに行けばいい?」

アンドリーは溜息をつき、カーナビの電源を切った。

「目的地は、もうそこにはないんだよ」

車内が静寂に包まれた。

車の窓の外では、灰色の空の下、黒焦げになったビルが並んでいた。

どこへ向かえばいいのか——誰も答えを知らなかった。

2️⃣

ヴォロディミルとアンドリーは、街を離れ、ポルタヴァの郊外へ向かった。

ここはまだ、戦火に焼かれていない場所だった。

「ちょっと休もう」

アンドリーが車を停めた。

二人は、ほぼ人気のない公園のベンチに座る。

遠くで、子どもがしゃぼん玉を吹いていた。

「……変なもんだな」

ヴォロディミルは呟く。

「何が?」

「しゃぼん玉なんて、戦争と一番かけ離れてるだろ」

アンドリーは苦笑した。

「子どもには関係ないんだよ」

ヴォロディミルは、小さくうなずいた。

しゃぼん玉は、ゆらゆらと風に流され、空へと消えていく。

ふと、彼は自分のスマホを開いた。

妻と娘がポーランドへ避難したのは1年前。
その後、連絡は途絶えていた。

まだ生きているのか?
どこかで、このしゃぼん玉を見上げているだろうか?

「お前、会いに行かないのか?」

アンドリーの言葉に、ヴォロディミルは少し考えて答えた。

「……行きたい。でも、もう遅いかもしれない」

「遅いなんてことはないさ」

アンドリーは、しゃぼん玉が消えていく空を見上げながら言った。

「俺たちが生きている限りな」

3️⃣

夜、ヴォロディミルは車の中で眠れずにいた。

目を閉じると、昔の記憶が蘇る。

娘のオレーナが、まだ5歳だった頃。

彼が仕事から帰ると、玄関で彼の靴を触っていた。

「パパの靴、もうボロボロ!」

笑いながら、彼女はそう言った。

「長いこと履いてるからな」

「新しいの買えば?」

「いや、こいつはまだまだ使えるよ」

そう言って、彼は娘の頭を撫でた。

……あの靴は、まだ家にあっただろうか?

ヴォロディミルは、座席の足元に視線を落とした。

今履いている靴も、もうボロボロだった。

戦争が始まってから、新しい靴なんて買う余裕もなかった。

でも——

「この靴でも、ポーランドまでは行けるか?」

彼は、アンドリーに聞いた。

アンドリーは一瞬驚き、そして笑った。

「行けるさ。お前が歩き続ける限りな」

ヴォロディミルは、ボロボロの靴を見つめる。

それでも、歩くことはできる。

4️⃣

翌朝、ヴォロディミルはエンジンをかけた。

「行くのか?」

アンドリーが助手席に座る。

「ああ」

「どこへ?」

ヴォロディミルは、一瞬迷った後、答えた。

「ポーランド。オレーナに会いに行く」

アンドリーはニヤリと笑った。

「ようやくカーナビの目的地が決まったな」

ヴォロディミルは、少し笑いながらギアを入れた。

「……目的地は、前方500キロ先だ」

エンジンの音が静かに響く。

ボロボロの靴でも、進めば必ずどこかにたどり着く。

しゃぼん玉は消えたとしても、また新しいものが生まれる。

そして、カーナビは新しいルートを示す。

—おしまい。—

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ごりんや
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