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今日の三題噺:第二十五夜「梅の花」「定食」「古本」
1️⃣
二月の寒空の下、梅の花が咲いていた。
「……もう、そんな時期か。」
新聞記者だった頃は、春の訪れを知らせる梅の花に風情を感じたものだ。しかし、今やそれを愛でる心の余裕などない。
久我原(くがはら)修一郎、七十八歳。
日本最大のメディアグループ「KMGホールディングス」の会長にして、長年この国の言論と政治を動かしてきた男。
四十数年前、しがない地方新聞の記者から始まり、持ち前の剛腕と狡猾さで社内外のライバルを蹴落とし、買収と統合を重ね、KMGを巨大メディア王国に育て上げた。
しかし——その地位が、今揺らいでいる。
「……クソが。」
テーブルの上には、週刊誌のスクープ記事が載った紙面が広がっている。
《KMG・久我原会長、不正蓄財疑惑。隠し資産数百億円か》
政治家や財界との癒着、裏金、隠し口座。
これまで幾度も噂されながらも、権力を握ることで封じ込めてきた。
だが、今回は違う。
新聞、テレビ、ネット——あらゆるメディアがKMGを批判し、政府も彼を見捨てる動きを見せている。
「俺が……俺がいなくなれば、KMGは終わるんだぞ……!」
梅の花が風に揺れる。
彼の人生もまた、散る寸前だった。
そんな時——ひとりの男が現れた。
2️⃣
「懐かしい場所ですね、会長。」
その男はそう言った。
場末の定食屋「大黒屋」。
久我原が若い頃、政治家や官僚との情報交換に使っていた店だ。
「お前、誰だ?」
「ただの仲介人ですよ。」
男は静かにほほ笑む。
「今の地位に執着しても、長くはもちません。辞任すれば、あなたの望みをひとつ叶えて差し上げます。」
「……ふざけるな。」
久我原は鼻で笑った。
「俺が辞めたら何が残る?権力を失った老いぼれが何を望める?」
「……本当にそうでしょうか?」
男は定食屋の壁を指さした。
そこには、色褪せた新聞記事の切り抜きが貼られていた。
《地方新聞・K新聞 若手記者がスクープ! 政治家の汚職を暴く》
四十数年前——まだ駆け出しの記者だった久我原が、初めて世間を動かした記事だった。
「あなたは、あの頃、何を信じていましたか?」
久我原は黙り込む。
「あなたの中に、まだ”記者”の魂は残っていませんか?」
3️⃣
久我原の人生を変えたもの、それは一本の古本だった。
「……ふざけた話だ。」
男の提案を受け入れた久我原は、古びた書店にいた。
そこにあったのは、四十数年前、彼が初めて執筆したルポタージュの本。
《国家の闇を暴く》
「こんなものが、まだ残っていたとはな……」
男は言った。
「久我原さん、あなたが本当に求めていたものは、権力でしたか?」
久我原は震える手で本を開いた。
そこには、かつての自分が書いた言葉があった。
《真実を伝えるのが、ジャーナリズムの使命である》
「……俺は、何をしていたんだろうな。」
久我原は静かに笑った。
4️⃣
久我原の辞任会見は、国中の注目を集めた。
「私は本日をもって、KMGホールディングスの会長職を辞任します。」
最後まで地位に固執すると見られていた彼の突然の退陣に、世間は驚いた。
そして、久我原はすぐに姿を消した。
数週間後——地方の小さな新聞社「K新聞」の編集部。
記者たちがバタバタと動く中、新人記者が声を上げた。
「編集長!匿名で一本、記事が寄せられています!」
「どれどれ……?」
編集長が受け取った原稿の冒頭には、こう書かれていた。
《メディア帝国の闇——私が見た真実》
筆者の名前はなかった。
だが、その文体に、かつての記者たちは息をのんだ。
「……まさか……」
——その頃、梅の花が咲く丘の上で、老人が一人、小さな新聞をめくっていた。
風が吹く。
梅の花びらが舞い落ち、彼の肩をかすめた。
「……これでいい。」
久我原修一郎。
彼は”権力者”ではなく、“記者”として生きる道を選んだのだった。
—おしまい。—
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