【小説】「愛される努力」
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=16878264 ←この話の直後の時系列のお話。
初期段階で設定が今ほど固まってない頃に書いたお話の後日談なので、一部現行の設定に変更している部分があります。ご了承ください。
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「よくお似合いですよ」
鏡の中に映った自分の姿が何だか自分ではないような気がして、シトラスは二、三度瞬きを繰り返す。
トルバランが用意してくれたパフスリーブのワンピースは、ミントグリーンを基調とした上品なデザインだった。袖口には小さなリボンがあしらわれていて、裾部分には白いレースが施されている。スカート部分は所謂フレアデザインになっていて、ふんわりとしたシルエットが可愛らしさを強調していた。
(いつサイズを測ったのかは……聞かないでおこうかな……)
着丈も肩幅も、果ては胸や腰回りまで一寸違わず自分の身体にぴったりなワンピースに戸惑いを覚えながら、シトラスは脳裏に浮かんだ疑問を呑み込む。
正直なところ、タイミングはいくらでもあっただろうということは理解しているが、聞きたくはない。
「もしかして……お気に召しませんでした?」
「ち、違うの!すごくかわいいし……気に入ったよ!ありがとう!!」
あまりにも無言でいたからか、そう尋ねてきたトルバランにシトラスは慌ててフォローを入れる。
(本当にかわいいけど……私にはかわいすぎないかなぁ……)
シトラスは今まで、学校の制服以外でスカートを履いたことがあまりない。
着心地が良くて動きやすければどんな服でもいいと考えていたから、私服はパーカーやトレーナー、ショートパンツやジーンズのようなラフな服ばかりがクローゼットの中身を占めている。
女の子らしい服装に憧れがないわけではないのだが、どうしても自分には縁遠いものだと諦めてしまっている部分があった。
魔装ドレスのデザインだって、本当に自分がこんなかわいいものを身に着けていて良いのだろうかと戸惑ったぐらいだ。
「あの……」
おずおずとトルバランを見上げると、彼はにっこりと微笑みを浮かべた。
「何でしょう」
「……この服、すごくかわいいし、素敵なんだけど……本当に私に似合ってるのかな」
トルバランの反応を窺うように尋ねると、彼は一瞬呆けた表情を浮かべた後、ふっと笑った。
「似合っていますよ、とても可愛いです」
「……っ!か、かわ……!?」
さらっと告げられた言葉に、シトラスは顔を真っ赤にする。
言われ慣れていない言葉に、どう反応すればいいのかわからない。トルバランは動揺しているシトラスの反応を楽しむようにクスリと笑うと、赤く染まった頬に触れた。
「褒められ慣れていないのですか?」
「だ、だってそんなこと、言われたことないもん……」
俯いて視線を逸らすシトラスの頭を撫でると、トルバランはそのまま彼女を抱き寄せる。
「ちょっと、……」
「……人間界の男性は、随分と奥ゆかしいのですね。それとも、目が節穴なのでしょうか?」
トルバランの胸に顔を埋める体勢になったシトラスは、恥ずかしさと戸惑いのあまり彼の腕から逃れようとする。が、拘束が緩む気配はなかった。
「貴方はとても魅力的な女性ですよ。もっと自分に自信を持ってください」
トルバランの言葉に、シトラスの動きがぴたりと止まる。
恐る恐るといった様子で見上げてきたシトラスと視線を合わせると、トルバランはゆっくりと顔を近付けてきた。
(あ、またキスされる……)
トルバランにキスをされるのはこれが初めてではない。昨日エナジー不足で倒れた際に応急処置として口移しでエナジーを分け与えられたし、エナジーのやり取りを含まないキスもした。
トルバランとのキスは嫌ではない。むしろ、彼の唇が自分の肌に触れるたびにドキドキと胸が高鳴って幸せな気持ちになれる。
だけど、だからこそ。
シトラスの心の中にはまだ、迷いがあった。
「……っ、待って!」
あと数センチでトルバランの唇が触れるというところで、シトラスはトルバランの胸を押し返して距離を取った。トルバランは一瞬目を見開いたが、すぐに穏やかな表情を取り戻す。
「……嫌でしたか?」
そう尋ねたトルバランの口調に咎めるような色は無く、ただ純粋に尋ねているだけのように聞こえた。
シトラスはふるふると首を横に振る。
─そうじゃない。そうじゃなくて……
「違うの。ただ……」
「はい」
「私、あれからずっと考えてたの……あなたが話してくれたこととか、自分の気持ちとか」
シトラスはトルバランの顔を見ることができず俯いたまま、ぽつり、ぽつりと話し始める。
「私はやっぱり、あなたの恋人だったことを思い出せないし……16年間シトラス・ルーシェとして生きてきた記憶しか持ってない。もしあなたの恋人と同じ魂を本当に持っていたとしても、その人とは別の人間だと思う」
「…………」
トルバランは何も言わずにシトラスの話に耳を傾けている。それが少しだけ心苦しくて、シトラスはぎゅっと拳を握り締めた。
「あなたが私に優しくしてくれたこととか、守ろうとしてくれたことを疑ってるわけじゃないの。ちゃんと心から私のためを思ってしてくれたんだってことは、わかってる。
でも、正直言ってまだ心の中がぐちゃぐちゃだし……あなたが私に向けてくれている気持ちと、私があなたに抱いている気持ちが同じなのかもよくわからない」
そこまで言い切って、シトラスは言葉を詰まらせる。そして、しばらくの間沈黙が続いた後、もう一度口を開いた。
「……だから、もう少しだけ……時間をくれないかな。ちゃんと答えが出せるまで、キス……しないでほしい」
絞り出すようにして告げたシトラスの答えに、トルバランは小さく息を吐く。
怒らせてしまったのではないかと不安になるものの、今更取り消すことはできない。シトラスは判決を待つ被告人のような気分で、トルバランの返事を待っていた。
「わかりました」
「……そうだよね、流石に虫が良すぎ……って、えぇっ!?」
あっさりと了承されたことに驚いているシトラスを他所に、トルバランは言葉を続ける。
「いきなりあのような話をされても、そう簡単に受け入れられるはずがないとは思っていました。私は昔の貴方も今の貴方も知っていますが、貴方には今のご自分の記憶しかないし、私のことだって覚えていません。話したところで混乱させるだけなのではと思っていましたが……やはり悩ませてしまったようですね。申し訳ありません」
紡がれた言葉の端々に、自分への気遣いが滲んでいる。
シトラスはぽかんと口を開けたまま、トルバランの顔をじっと見つめていた。そんな彼女の反応を見て、トルバランは苦笑交じりに溜息を吐き出す。
「……まさか、私が貴方の気持ちを尊重しない答えを出すと思っていたのですか?」
「だっ……だって!私に何にも言わないで勝手にここに連れてきたし、自分のことに踏み込まれそうになったら怒ったじゃない……!!」
ここまでにされた事を思い返しながらシトラスがそう訴えると、トルバランはふっと表情を和ませた。
「それを指摘されてしまっては、返す言葉もありませんね」
苦笑しながら、トルバランはシトラスの髪を指に絡めて弄ぶ。その手つきはどこまでも優しい。
「ですが……、そうですね。言い訳を許していただけるなら……そうしたのは、貴方に愛されようと思っていなかったからです」
思い掛けない返答にきょとんとしていると、トルバランはさらに続けた。まるで独り言のように。あるいは懺悔のように。
「お話しした通り、私は元々貴方が回復したら魔法少女としての記憶を全て消して人間界に送り返そうとしていました。そしてもう二度と、貴方の人生には干渉しないつもりだった」
「……」
「……ですが、貴方は良くも悪くも素直でお人好し。他者から優しさを向けられれば、それに優しさで応えられる人です。
もしそれで、貴方から敵意以外の感情を向けられてしまったら、私はきっと貴方を手放せなくなってしまう」
「……だから、わざと私に嫌な事をしたり、冷たいことを言ったりしたの?」
シトラスの問いに、トルバランは静かに目を伏せる。
それが肯定の意を示していると悟った瞬間、シトラスの中に湧き上がったのは何とも言えない複雑な気持ちだった。
「もしかして、簡易魔装(インナー)の上からも服を着れるのに今日まで用意してくれなかったのって」
「嫌な奴だと嫌われたかったからですね」
「……お風呂に一緒に入ったのは」
「上に同じです。……正直、あんな簡単に言いくるめられるとは思いませんでしたが」
「………女神様と契約した人間の処女が云々って脅かしてたけど」
「本気にしていたんですか……ただのハッタリですよ。あそこまで言えば、流石にお人好しの貴方も警戒してくれると思ったので」
シトラスの頭の中で、これまでのトルバランの不可解な行動がパズルのピースのように当て嵌まっていく。
─ああ、もう。
つまりこの人は、最初から自分が悪者になって嫌われる覚悟でそういうことをしていたのだ。
「……ばかじゃないの」
放たれた言葉とは裏腹に、その口調は柔らかいものだった。
それを聞いたトルバランはほんの少し目を見開き、それから困ったように眉尻を下げる。
「返す言葉もありません」
初めてトルバランに会った時のシトラスは果たして、彼がこんな顔をすると想像できただろうか。
そこにいるのはこっそりと助けに来てくれる名もないヒーローでも無く、自分を倒そうとしていた異世界の組織の幹部でも無く、一人の不器用な男だった。
「貴方に苦痛を味わって欲しかったわけではなかったので食事や寝床は提供しましたが、心を開かれてしまわないように距離感を保つのが精一杯で。……結果的に、無駄な努力になってしまいましたね」
トルバランは自嘲気味に笑う。シトラスはそんな彼の笑顔を見て、眉を下げて困ったように笑い返した。
「やっぱり、あなたは悪い人じゃないよ」
「……悪の組織の幹部を務める男に言う台詞ではありませんね」
トルバランの指摘にシトラスは確かに、と思い至って再び笑ってしまう。それにつられたのか、トルバランもふっと頬を緩めた。
「あの夜に全てをお話しするまで、貴方に愛されなくてもいいと思っていましたが……今は、そうは思えない」
トルバランはそっと身を屈めてシトラスの両手を取ると、真っ直ぐに彼女を見据える。真剣な眼差しに思わずどきりとしてしまうものの、シトラスは視線を逸らすことができなかった。
「私は貴方を愛しています。そして叶うことなら……烏滸がましいことかもしれませんが、─私も貴方から愛されたい」
握られた手から伝わる体温が熱い。
トルバランの言葉の意味を理解して、シトラスの顔が一気に熱を帯びる。心臓が早鐘を打ち、胸の奥が甘く疼く。
─どうして、こんな気持ちになるんだろう。
「……ですから、これから貴方に愛される努力をします。貴方が待って欲しいと言うのなら待ちますし、貴方がしないで欲しいと言うことはしません。だけど貴方が私に何かを求めた時には必ずそれに応えますし……私の気持ちに応えてくださるかどうかには関係なく、これからも貴方のことを守ります。それだけはどうか、忘れずにいてください」
祈るように、彼は言う。その声には切実な響きが込められていた。
握られていた手がそっと離れて、両手が自由になる。だけど、それまで包んでくれていた熱が離れた途端に心細いような寂しいような気分になってしまう。
彼の気持ちに応えられるかどうかは、わからない。そもそも彼に抱いている想いが恋愛感情なのかさえ、今のシトラスにはわからなかった。
でも、少なくともトルバランのことは嫌いではない。
むしろ、彼と過ごす時間はとても居心地が良い。
シトラスはトルバランの顔をじっと見上げ、少し躊躇うようにしてから口を開いた。
「私……、」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「あなたの気持ちに応えられるかわからないし、いつ答えを出せるかもわからない」
ミントグリーンのワンピースの裾をぎゅっと握り締めながら、シトラスはトルバランの目を見る。
「それでもいいの?」
「構いません。待つと言ったでしょう。その間に、私もどうすれば貴方に愛していただけるか考えさせてもらいます」
トルバランは迷いのない口調で答えた。整った顔立ちに浮かぶ柔和な笑みに、シトラスはどこか気恥ずかしさを覚えて俯く。
名前のわからない感情が胸の中で渦巻いて、なんだか落ち着かない。甘いような、苦しいような不思議な感覚だった。
だけどその感情は、決して不快なものではない。
(私……)
シトラスは小さく深呼吸すると、意を決して口を開いた。
「……わかった。私も、がんばる。その、あなたのこと……トルバランのこと、真剣に考えるから」
琥珀色の目をまっすぐに見据えて、シトラスは答える。今の自分にできる限りの誠意を込めたつもりだ。
トルバランはほんの一瞬だけ驚いたような表情を見せたものの、すぐに穏やかな笑みを浮かべて「ありがとうございます」と囁いた。シトラスが今まで見た中で、一番優しい笑顔をしていた。
だから、急に安心してしまったのかもしれない。
穏やかな空気の流れる空間に、ぐぅぅ……と情けない音が響き渡る。
「…………っ!?」
シトラスは反射的に自分のお腹を押さえたものの、時すでに遅し。二人しかいないこの部屋の中で、音の出所が自分のお腹であることは明白だった。
トルバランはぱちりと瞬きをしてシトラスのことを見ていたが、やがて口元に手を当ててくつくつと笑い始めた。
「……っ!!」
それが自分のお腹の音に対する反応だと悟った瞬間、シトラスは羞恥で全身の血が沸騰するような錯覚を覚えた。
「~〜〜っ!わ、笑わないで!」
「す、すみませ……ふふ……っ、そういえば、食事がまだでしたね」
トルバランは口元を手で覆うものの、堪えきれないといった様子で肩を震わせている。シトラスはかぁっと顔を赤くしてトルバランを睨む。
「ほら、怒らないで。少し遅くなりましたが朝食にしましょうか──シトラス」
名前を呼ばれ、シトラスはぴたりと動きを止めた。
怒りや恥ずかしさの感情が一気に霧散していく。代わりにじわりと湧き上がってきたのは、春の陽だまりのような温かな幸福感。
(名前……初めてちゃんと呼んでくれた……)
愛を伝えられても、自分のために何かをしてくれても、トルバランと自分の間はまだ薄い壁のようなもので隔てられているとシトラスは感じていた。
だけど、今。トルバランは確かに、シトラスの名前を呼んだのだ。
たったそれだけのことで、心が満たされた気がした。
「トルバラン」
「はい、何でしょう?」
シトラスが呼びかけると、トルバランは微笑んで応えてくれる。胸に溢れてくる幸せを噛みしめるように、シトラスはふにゃりと嬉しそうに笑って言った。
「何でもない。呼んでみただけだよ」
シトラスの無邪気な言葉に、トルバランは思わず目を見開く。
それからその言葉に笑みで返そうとした、その時。
ぐぎゅう。
また、間の抜けた音が響いた。
しかもさっきよりも、少し大きめに。
「……」
「……」
「……今の、私じゃないよ」
「……えぇ、もちろんわかっています。私たちしかいませんから、嘘のつきようがありません」
観念したようにトルバランが呟くと、シトラスは堪え切れずにくすくすと笑う。
「よかった、私だけじゃなかったんだ。お腹空いてたの」
シトラスが言うと、トルバランはバツが悪そうに咳払いをした。
どうやらトルバランはあまり格好のつかない場面を見られたくない性分らしく、ひどく居心地悪そうな顔をしている。
そんなトルバランの態度に、シトラスはますますおかしさがこみ上げてきてしまう。
「〜〜〜、……ほら、食堂に行きますよ。貴方だってお腹が空いているでしょう?シトラス」
まだ少し照れくさそうなトルバランがややぶっきらぼうに言うと、シトラスはにっこりと笑った。
「うん!」
シトラスが元気よく返事をすると、トルバランはようやく微かに表情を緩めた。
先に部屋を出たトルバランの後を追って歩き出す。彼の背中を追いかけるのではなく、隣に並ぶように。
これから数え切れない程お互いの名前を呼ぶ未来が待っていることをまだ知らない二人の頭の中は、次第に数分後食べることになるであろう焼けたパンやかぼちゃのポタージュのことでいっぱいになっていった。