母娘共依存 - 私の喜びが母の喜びと思っていたあの頃(前編)
もうあと10日で、26歳になろうとしています。
つい先日、ようやく実家から独立する事ができました。
一人の時間を存分に味わっている今、改めて自分について、見つめ直したいと思っています。
今回は、親子の「共依存」について、脱却するきっかけになった実体験をお話ししたいと思います。
家族の問題と子ども時代
私は子どもの頃から、周囲に助けを求めたり、自分の意見を伝えることが苦手でした。
私の家族構成はこんな感じ。
単身赴任の父、難病を患う弟、ひとりで問題を抱えようとする母。
いかにも崩壊するか何か起きそうなこの家族の長女である私は、日常生活が”普通”であることが一番だと思っていました。
学校ではおとなしい「優等生」、家では「頼れるお姉ちゃん」を演じました。
そうしていつしか、自分の将来についての希望など考えもせず、家族の平穏な暮らしを考えるようになっていました。
(結婚したいばっかり言ってたし、卒アルにまでお嫁さんになりたいって書いてた笑)
この原因は、自分たち家族の抱える問題を、誰にも打ち明けられず、平然を装う癖がついてしまったからでしょう。
(きょうだい児について書いた記事はこちら)
家族を一番にとはいっても、よく家事手伝いをするわけではありません。
父の単身赴任中、一家を任された母は、強そうに見えてそんなに強くはありませんでしたから、誰にも頼れない状況に耐えられず、隠れてよく涙をこぼしていました。
母の一番近くにいた私は、寝室で泣いている母をそっと横目に、寝たふりをしながら、耳をそばだてていたのです。
子どもの前では弱い姿を見せまいとしていますが、父や、祖母・親戚、弟の病院・学校関係者との電話越しの会話などを盗み聞きしていると、母の震える声や、すすり泣く音が聞こえてきます。
そんな時には、タイミングを見計らって、母と二人きりになる時間を作り、母の愚痴をひたすら聞くのでした。
母の味方(話を聞いてくれる相手)はほぼいませんでしたから、「学校のカウンセラーは役に立たない」とか、「公務員は機械的で共感してもらえない」とか、「男は必ず否定から入る」とか、、、ためになるような(笑)話を私だけにしてくれました。
時には、一緒になって泣いたことも、何度かあります。
(ここでは詳細は省きますが、本当にみんな、困っている人に対して冷たいのです。)
ひと言で言えば、壊れかけの家族をなんとか取り持っていた、という感じです。
お姉ちゃんとして、親の言うことは良く守り、弟の面倒をみて、家族がなんとか平和でいられるように、体裁を保っていました。
ただ、これは明らかに、「普通」な状態ではありませんでした。
母が一人で抱えていた精神的負担は次第に膨らみ、私はよく、母のぼーっとした顔を見て見ぬふりをして、明るい話を振ってみたり、気を紛らわせようとしました。
私は、母や弟のために何かしてあげることもできず、それを負い目に感じていました。母の気が少しでも安らぐならと、とまらない愚痴もひたすら聞いていました。
年頃の女の子なら、相談したい悩みごとでも一つや二つあるだろうに、いつも自分の本音は隠していたんです。(まあ、親は気づいているでしょうね。)
*
なぜ、母がこんなにも一人で苦しんでいたのか・・・。
弟は、幼い頃から難病を患い、いつどのような状況になってもおかしくありませんでしたが、薬の開発が進み、なんとか今まで、命をつなぐことができています。
弟の病気は、臓器疾患のため、身体に症状が現れません。
見た目に現れない病気だからこそ、周囲の人も、その病気の実態が分からず… 悪気もなく「弟くん、元気じゃないか」と言う人もいれば、「ちゃんと肉と野菜を、食わせているのか」と、母に疑いの目を向ける人もいます。
沢山飲む薬のせいで眠気が襲うせいか、弟が学校の勉強についていけなくなってしまったときは、学校の心理カウンセラーにさえ「頑張るしかない」と一言。見捨てられました。
本当に、社会は、優しい人たちばかりではありません。。。
神経をすり減らして子供の病気とたたかっている母に、なんという仕打ちだろうかと…私自身も心苦しくなりました。
その上、離れて暮らす父親は、そんな事情はいざ知らず、何気なく平気で、とげのある言葉を突き刺してしまうのです。。。
そんな状況を目にして、私は母の境遇に共感し、「私だけは母の味方でいよう」と、誓ったのです。
母への共依存
「私だけは普通であるように見せよう」「常に良い子であろう」と努力した結果、私は思い通り、母の心の拠り所になりました。
「頼れるお姉ちゃん」「愚痴をこぼしても聞いてくれる」「唯一の味方」
私の喜びが母の喜びになり、私の成功が母の成功になります。
成績表のコメント欄は、「成績優秀、生活態度は何の問題もありません。」
良い高校、良い大学へと、母が喜ぶような人生の選択をし、将来の心配もきっと無いように見えました。
また、同時に、弟の病状も、医療の発達のおかげで、普通に暮らせる状態を保つ事ができ、学校にも通い続けることができました。
そんな日常に、「普通な家族」に近づいたような気さえ、していました。
*
時が過ぎ、大学四年。
就活も中盤にさしかかった頃、私は初めて、自分の選択を自分で決めなければならない局面にぶつかります。
これまで私は、何の理由もなく「母のため」「弟のため」が、条件になっていました。
「この学校に行けば、母は喜ぶし、弟の手本になれる…」
ある意味で、選ぶ理由が明確だったのです。どんなに進路選択にも、「迷い」がありませんでした。
ところが。就活を前にして、、、
「何のために働くのか?」「自分は何を成し遂げたいのか?」
面接官には、「将来のビジョン」や「ありたい姿」を深掘りされ、「家族のためです」とは言えませんでした。
そうして次第に、自分自身がどうしたいのかが重要であることに気づくのです。
「自分って、一体、何のために頑張れるんだろう・・・?」
突然つきつけられた、「自由」と「責任」に対して、私がこれまで積み上げてきたものは、一挙に空虚と化しました。
自分の進路は全部自分で決めてきたと思い込んでいたそれは、「不確定な未来」を本気で考えることからの逃げ道であり、確実に一生自分のものである「家族」を、言い訳けに利用していただけなのです。
*
そんな矢先に、事件は起こります。
私の家族は、お互いの誕生日のお祝いに、それぞれの好物を食べるのが習慣になっていました。
豪華な食事というわけではありませんが、私はハンバーグ、弟はステーキ、という感じで、その日は一家団欒して、食卓を囲むのが定番になっていました。
大学生になった弟の、初めての誕生日。
その日はなぜか、ステーキではなかったのです。
(ちょっと理解しづらいと思うので、補足します・・・)
これが一大事件だったのは、この出来事をきっかけに、母の愛情が私の方に偏っていることを、顕著に感じ取ってしまったからです。
夕食の準備中、母が鮭を焼き終わってから、それとなく今日が弟の誕生日であることを伝えると、母は、「ケーキでも買ってくる・・・」とすすり泣きながら、足早に玄関を飛び出しました。
(ちょっとまだ伝わらないかもしれないので補足しますと、母は、私の誕生日には必ず何かプレゼントを用意してくれたり、夕食の希望を聞いてくれたりします。毎年、別にいいよと、言うのですが、必ず気にかけて準備してくれるのです。そんな母が、弟の誕生日を・・・ というところです。)
弟がもし病気でなければ、大学生にもなったし、自由にのびのびとさせてやろうと思っていただろうに、弟はいつになっても、世話がかかるのです。もう疲れたと、母は何度も言っていました。
そうは言っても、母が、自分の神経をすり減らしてまで、大事にしてきた子どもです。
(母は本気で、弟の誕生日を忘れていたようです。)
「私は、結局、親の愛情を独り占めしたいだけなのでは・・・?」
ふと、そんな考えが頭をよぎりました。
*
「弟は病気だから、世話がかかるのは当たり前。」
「お姉ちゃんなんだから、お留守番して、良い子にしていよう。」
それがいつの日か、
「お母さんは、私がそばにいなくてはだめ」
「私が普通に良い子に育てば、母は成功したと思ってくれるに違いない」
そんな風にねじ曲がって、家族の存在に固執していくようになったのです。
*
それから、私は、私自身の行動・思考に興味を持つようになりました。
そして、それと同時に、今まで振りかざしていた家族の盾が使えなくなったとき、私は自信を失いました。
家族の中では「良いお姉ちゃん」であったはずが、一個人として見られたときに、自分について考えられない・将来のビジョンも何もない「空虚な人間」になってしまったからです。
それからというもの、私は、自分の誕生日が来るのも怖くなってしまいました・・・
~後編に続く~