髪を触る癖について
僕には、昔から髪を触る癖がある。
最近、これについて考えて、その裏に自分が持っていて、向き合っていきたい、どうしようもない寂しさや、疎外感があることに気づいたので、それを書いていく。
まだ小さいとき、母親のサラサラの髪が好きで、一緒に寝ているとき、いつまでも触っていたかったが、育児と介護に疲れ切って、眠りたい母親に突き放された記憶が、ずっと残っていた。
これが、僕の中で大きなトラウマになっていて、大人になった今でも、その寂しさからくる甘えがあることが最近分かった。
母親に甘えたかったが、甘えられなかった記憶が、他にも自分の中で根強くある
早生まれで、まだ幼稚園に対しては幼すぎた故、幼稚園に行かずに、まだ母親に甘えていたかったのに、突き放され、その幼稚園で先生に否定された記憶
妹が生まれるので、突然祖母の家に預けられ、夜通し祖母の背中で泣き通した記憶
それが、自分の中に根強くある、寂しさや悲しさ、他者に対する傍若無人さ、身勝手さ、色々なものへの依存癖の根源な気がする。
これは、全て母親のせいである、と言うことが言いたい訳ではない。
母親に重荷を加えた、色んな場所での愛の欠如と、世界のバランスの崩壊が原因で、誰のせいでもない。
母親代わりの、自分が甘えられる、依存できる何か、または自分を求めてくれる何かがないと、不安でしょうがない、と思ってしまう時がある。
髪を触る癖は、その不安さの現れだと思う。
常に誰かと接続していなければ、不安でしょうがない、また、世界は俺をのけものにするんだ、という気持ち
そういう寂しさが根底にあるから、
他者に「大人」としての距離感を取られることに対しても、必要以上の恐れや、寂しさを感じることがある
善意にコーティングされた、他者の好意の返礼を期待した身勝手な行動をする時がある
孤立を恐れ、誰とでも仲良くしようとしすぎて、ポジションを取らない時がある
表現をするときも、否定されることを恐れるあまり、自分のスタイルを貫き通せない弱さがある
一人で解決するべき問題でも、他者に対して甘え、その解決を他者に任せすぎるときがある。また逆に、他者が離れていったり、自分のことを悪く思うのを恐れるあまり、他者の責任領域も自分の責任領域にしてしまい、それを「優しさ」や「他者愛」とすり替えるときがある。自分の責任領域と、他者の責任領域の明確な区分けができない時がある。
理解されないことで感じる疎外感を恐れるあまり、過剰に「理解されること」を目的とした自己表現をする時がある
上に書いたものは、寂しさがネガティブな方向に露出した場合だ。でも、それをポジティブに裏返すと、
どのような人も、暖かく迎え入れようとする優しさ
はねつけられることの辛さを深く分かった上での、否定をしない寛大さ
愛する人の力になりたい、という思いやり
しっかりと他者の心に伝えることのできる表現スタイル
完璧ではなく、若干の甘えが残る、放っておけまいと思わせるかわいげ
のような、いい性質として現れるときもある。この寂しさを、自分の中で上手く乗りこなすのが、僕の人生で挑戦したいことの一つだ。
そして、今振り返ってみると、母親に甘えきれなかった記憶はあくまで過去であり、今の自分とは切り離して考えるべきであるというのが分かる。
しかも、客観視してみると、自分は母親に十分すぎるくらいに甘えていたのではないだろうか、と思う。
今の自分は、甘えさせてくれなかった母親の状況を察し、その上で二人の大人として母親と対話し、過去に対する清算をすることができた。
であるし、今の自分は、幼稚園に行けなかった、母親に頼るしかない無力な自分ではない。
他者に否定されたところで、孤独になったところで、もう何も怖くはない。