『蠱惑針』

 チクチクとした太陽がチラチラとこちらを覗いてくる8月、曇りの日。湿気と汗が彼女の髪の毛や服を濡らし僕を誘惑してくる。暑さでどうかしてしまった僕は彼女にケーキを食べさせた。崩壊したデパートに残った僅かな食料。その 最初のひとつを彼女の口に運ぶ柔らかそうな舌でスポンジがくずされるのを見ていた。 静かさの中で君が口を開く。
「ねえこれからどうしようか」
「そ、そうだね…」
くずおれた彼女の腹に視線を落とすと、そこには真っ赤な血溜まりばかりが広がっている。
「そうだ、水族館…!今ならほら、貸切だよ…」
彼女は口の端から生クリームを零して、ふふっと笑う。深呼吸をした後、彼女の隣に座り
「うん…そうだね、水族館なら僕と君だけの世界だ」
と笑い返した。その後も、僕と彼女はゆっくりと進む雲のような、穏やかな時間を過ごした。

「ねえ 君はもういいの?」
どのくらい時間が経った後か 彼女が問いかける。
「ここは深い眠りについた人にしか来れない場所って もう知ってるんでしょ。」
いいんだよ ここで君と過ごせるなら
「ふふ どうせなら」
「私の代わりに…沢山生きてよ。」
とん、と彼女が、僕の胸を軽く押す。
「そんな、嫌だ!!」
抵抗虚しく、僕の指は空を切った。
彼女が遠く、暗闇から離れていく。
頬には白い生クリームが少し、ついていた。

 ピピピピッ。煩い目覚ましが僕を起こした。まだ夏が残る9月。今日は新学期。僕は少し早くに家を出た。クラス内は何も変哲もないただの休み明け。ただ彼女だけがいない。
 父は今でも"彼女"を探している。今日すらまともに書かれてない父の日記。閉ざされた記憶の先 飽きるほど聞いた蝉の声。父の部屋から後退りして廊下に出た。 腕時計の止まった針だけが 彼の支えとわかったから。


________________________
作者 少年/人外/ケイマ
使用ツール:オンラインじゃれ本
online.jarebon.com
________________________

いいなと思ったら応援しよう!