【雑記】この感情に名前をつけれない
電車の中でイライラを隠そうともせずに立っている男がいた。彼は、極めて満員に近い電車において座れなかったことに怒りを感じているようだった。
僕はそれを、下からチラチラと見た。つまり僕は彼の前に座っており、彼は僕の前に立っていた。
彼は何度も舌打ちをし、僕を睨んだ。多分「俺が座りたいから、お前立てや」という感情がその視線には込められていたように思う。
でも、僕は絶対に立たない。僕にとって電車は、心行くまで読書を楽しむための場所だから。それを他人に邪魔されるいわれはない。勿論、前に立っている人が病人や妊婦であれば話は別だけど。
僕はリュックから本を取り出して、読書を始めた。相変わらず彼は睨んできたけど、僕はすぐに本の世界へと入った。
その日読んだのは太宰治の「パンドラの匣」という作品。太宰にしては珍しく、清涼感溢れるストーリーで、爽やかな読後感を味わった。
本を閉じて、僕は目線を彼に戻した。彼はもう僕の前には立っておらず、斜め前の座席で足を組んで眠っていた。彼の大きな体躯は座席を二つ分占領している。
僕は目的の駅で電車を降りた。彼は電車を降りなかった。
僕は、多分彼のようには生きていけないだろう。そして彼も僕のようには生きていけないだろう。二度と会うことのないであろう彼を見て、なんとも言えない感情が込み上げた。