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【掌編小説】インク商法


〈インク商法〉
 印刷機本体を安価で売り、附属するインクを高値に設定することで長期的に利益を回収する方法。転じて、そうした売り方の俗称。

 僕はよく人に、ひげが濃い、と言われる。そのせいで中学の頃は『コソ泥』、高校では『雑木林』とあだ名を付けられ馬鹿にされた。
 でも、社会人になって、毎朝髭を剃るようになってから気が付いた。
 僕は髭が濃いんじゃなくて、髭が太く硬くしぶといんだ。つまり、並大抵の髭剃りじゃ根本まで剃り切れず、髭が残ってしまう。無理に剃ろうとすると、負けてしまい、流血。もっと早くこの事実に気付けばよかった。だって、髭がここまで頑丈になってしまったのは、学生の頃から、なかなか綺麗に剃れない髭をしつこく剃刀で何度もあたっていたのが原因だろうから。多分、剃っているつもりで、知らない間に剃刀に絡まった髭を引っこ抜いていたんだと思う……。
 そこで、思い切って、いま流行りの『10枚刃』の剃刀に挑戦してみることにした。期間限定でシェービングクリームとセットで980円だって言うから買ってみたけど……悪いレビューも見かけたから不安だ。「切れ味が良すぎて肌まで削げた」とか「一瞬手が滑っただけで片眉毛が全部剃り落ちた」とか。大体、剃刀なんていくら刃を重ねたって相場5枚刃だ。そこへ一気に倍の数刃を増やすって、いくら何でも無茶し過ぎじゃないか。
 しかし、今のところ僕の髭を退治する方法はない。折角買ったんだから、1回くらいは試してみよう。
 丁度、いつものシェービングクリームも使い切ったところだから、セットで買ったこの特製クリームを塗ってみる。
 出してみると、随分きめ細かなクリームだ。高級フレンチのムースみたいで、美味しそうにすら思えるくらい。塗った感触は、見た目以上に柔らかくて軽い。なるほど、肌に優しそうだ。
 早速、頬を10枚刃であたってみるとーー
 えっ!
 驚いた拍子に剃り間違えそうになる。危ない、眉毛を剃り落とすところだった。
 こんなに刃に引っかかる感触がないのは、生まれて初めてだ。心なしか、いつものジョリジョリという剃る音すら聞こえない気がする。余りにも軽々剃れたから。
 というか、本当に剃れているのか……? ただ刃が髭に当たってないだけじゃないのか、と鏡を覗き込む。
 つるんっ! そんな音が鳴りそうな玉子肌!
 いや、驚くべきはそこじゃない。元々髭が生えていたのか疑わしくなるくらい、素肌が見えている。剃った後の青みすらないなんて。しかも、まだたったひと剃りしかしていない。こんなことあり得るのか。
 あごもあたってみるーーつるんっ! 虫も滑りそうな玉子肌!
 すいすいと剃れる感触が気持ちよくて、あっという間に全ての髭を剃り終わった。
 感激して体が震えている。クリームを落すと、生まれたばかりのような肌がそこにあった。
 クリームのラベルを見ると、『弊社の剃刀の切れ味に対応できる品質にグレードアップ!』と書いてある。そうか、レビューにあった「肌まで削ぎ落ちた」というのは、別の会社の安いシェービングクリームを使ったからなんだ。もう一つは単なる剃り間違いだし、慎重に剃れば何も問題ない。
 まさか、運命の剃刀だけじゃなく、運命のシェービングクリームにまで出会えるとは。
 こんなに綺麗に髭がなくなったら、自信も湧いてきた。身も心も新たに今日からまた頑張れる。これからの生活、この剃刀とクリームは手放せなくなりそうだ。
 今なら期間限定、セットで980円だし、これは早く友達に勧めなくては!

「カット! OKです」
 煌々としたいくつもの照明の下、CM撮影の監督から声がかかり、洗面台のセットの前に立つ男性タレントの元にメイク担当が駆け寄る。あっという間に頬のクリームが拭き取られる。
 それを眺めるスーツ姿のふたりは、剃刀の販売会社の商品開発部長と社長だ。
「いやあ綺麗に撮れました。CM用に成分の濃いクリームを作ったかいがありましたね、社長。注文殺到するんじゃないですか」
 部長は、禿げあがった頭に噴き出る汗をハンカチで拭いながら社長に言う。
「全くだな。君に保湿成分を多めに入れたものを作ってもらって正解だったよ。ちなみに、どのくらい入れたんだね」
「通常の30倍です」
「ほぼローションだな」
 そう言ってふたりは高らかに笑う。会社が本当に売りたいのは、剃刀ではなく、シェービングクリームなのだ。
 剃刀自体は他社の価格のほぼ半値。一方、シェービングクリームは他社の3倍もの価格だ。それでも売れるであろう確固たる自信が社長にはあった。理由はふたつある。ひとつは10枚刃などというほとんど武器のような剃刀に、肌を傷めずに対応できる潤滑性を持っているから。もうひとつは、使用者がこの商品から離れられない仕掛けを施したからだ。
「しかし、まさかクリームに後発性の発毛剤と育毛剤が入っているとは夢にも思うまい」
 社長が口端を上げ微笑む。
「素晴らしいアイデアです。使用者は使うほどに髭が濃く、何より硬くなり、数日後にはもはや弊社の10枚刃以外では歯が立たなくなるという算段、お見事です」
「いやあ、このくらい君たち商品開発部に考えてもらわないと困るねえ」
「面目の次第もございません」
「君の頭にも使ってみたらいいんじゃないか」
 そう言って社長は部長のつるんとした頭を撫で、また高笑いをする。
 これからの剃刀業界は弊社の独占市場となるだろう、そう思うとふたりの表情は緩みっぱなしになった。
「きゃああああああ!!!」
 突然、洗面台のセットの方から悲鳴が上がる。ふたりが目をやると、メイク担当が男性タレントの姿を見て慄いていた。
 追って、鏡を見た男性タレントも絶叫する。
 男性タレントの顔、つまりクリームを塗っていた部分から、髭が目視できるほどの速度で伸び続けていた。それも、針のように硬く太く、ハリネズミが口元を覆っているような顔になっていく。
「なんだこれは、どういうことだ!」
 社長は目前の状況を呑み込めないまま、部長に問いただす。その間も、髭は伸び続け、遂には鏡に突き刺さった。
 部長は酷く焦った様子で答えた。

「社長がCM用にクリームの成分を増やせと申されたので、発毛剤と育毛剤も30倍にーー」


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【罪状】使用窃盗罪

無許可でスタジオを借り撮影していたため。

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