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【掌編小説】うまみ調味料

 遥か先のような気も、目前のような気もする、敗戦による食料難の時代。
 闇市の中の、さらに闇に灯る豆電球。肥えたハエの影が飛ぶ。それがLEDの光であることが、荒んだ時代では浮いていた。
 外との仕切板程度にしかならない、半壊したバラック小屋で男はコップ酒をあおっていた。
 ひと口あおると、男は顔を赤らめて、歯の隙間から鋭い息を吐いた。決して、酔ったわけではない。
「くぁあ、なんだこれ。酔えりゃ何でもいいみてえな酒だな」
 男は文句を垂れながらも、久しぶりのアルコールの感覚に満足し、ふた口、み口と喉を濡らす。
「どうせ、肉もろくなもんじゃねえんだろ」
「それがお客さんね、肉の方は案外評判がいいんですよ」
 焼串から上がる煙の向こうで、店主が黄色い前歯を歯茎ごと見せて笑う。
 焦げた油の滴と虫の跡が貼り付いている真っ黒なコンロを見ると、およそ食欲などは湧きそうにもないのだが、男にとっては肉にありつけるのならば、どんなものでもご馳走だった。
「そんじゃ、二、三本、美味いところを見繕ってくれよ」
「へい、ちょっと待ってくんねぇ。いま焼いてんのならすぐ出せますけどね、どうしやしょ。モモですが」
「じゃあそれ、塩でもらおうかな」
「へいよ。塩で出すの久々ですよ」
 店主は、焼いている串に積もるほど塩を振りかけながら言った。
 闇市の飲み屋の肉なんてのは、どこのものも臭くて味わえたものではない。それでも、肉が不自由なく食べられた豊かな時代を思い出したくて、客は肉を頼むのだ。その時間を少しでも長く感じていたいから、タレを多く絡ませて臭みを誤魔化す。
 塩ではそれを誤魔化せない。店主は男を珍しがった。
「そうかい。肉を食べてるって実感が大事なのにな。他の奴らはわかっちゃいねえ」
 男がボヤいてる間に串が焼き上がり、湯気が店主の手元から伸びて男の前に置かれる。
男は驚いた。
「随分大ぶりだなこりゃ。いよいよ何の肉かわからねえぞ」
 冗談交じりの言葉に、店主が苦笑いで返す。
 男は串の匂いを嗅ぎ、先から齧り付く。
 ひと口めで目を丸くした。歯を跳ね返すほどの弾力に、噴き出す肉汁。臭みはあるが、男の知っている嫌らしさはない。うまい。
「おい、本当に何の肉だよ。こんなうまいの食ったことねえぞ」
「ですからうちは、肉は結構評判いいんですよ」
 ふた口、み口と運び、あっという間に一本平らげてしまう。その様子を店主は煙の向こうからじっと見ている。
「鶏でも牛でもねえな。豚に近いような気もするが、それよりももっと歯ごたえがある。何の肉だか教えてくれよ。別に不味いって言ってるわけじゃねえんだからいいだろ」
「へえ。実はね、肉自体はただの豚でして。特別なのはそこじゃねえんですよ」
 そう言うと、店主は焼き場の下の棚から小瓶を取り出した。『うま味』と書いたシールが貼ってある。
「これですよ」
「うま味調味料……味の素みてえなもんか。そんなもんで、こんなに肉の味が変わるかね」
「これが変わるんですよ。うちで独自に調合したものでね、市場に出回ってる調味料の10倍のうま味成分を凝縮させてるんでさぁ」
「それを振りかけただけかい。うま味ってすげえな。もう一本くれよ」
 男はすでに、食欲とは別に、串焼きの味を欲していた。店主は焼き場を回り、男の横に行くと小声で言った。
「それはそうと、お客さん、もしかして戦争には行かなかったのかい」
 男は唐突な質問に戸惑いながらも返答する。
「ああ、まあ俺は病弱だったんで。兄貴が行ったから俺は逃れたんだよ」
 言葉は急激に尻すぼみになり、男は怯えるように一歩店主から退いた。
「あれか、兵役逃れを意気地なしだとそう言いてえのか。そういう店なのかここは」
「いえいえ、違いますよ。この肉は戦地帰りのお客さんには酷く嫌われているもんでね、ちょいと気になって。失敬。話したかったのはそれではなくてね」
「なんだよ」と言って、男は恐る恐る席に戻り、店主に耳を貸す。
「店の裏に地下通路がありまして、そっちは会員制の飲み屋になってるんです。入会条件は戦地に行っていないこと。そこではこのうま味調味料をふんだんに使った料理やら、酒を振る舞ってるんでさぁ。もしよければ、お客さん、これからどうかなと思いまして」
「振る舞うったってただじゃねえんだろ」
「串一本、これだけで」
 店主は指を2本立てる。
「破格じゃねえか!おい、本当なんだろうな。ぼってねえだろうな」
「ぼりゃしませんよ。国民が支え合わなきゃ行けない時代です。あたしがお客さんらに出来る最大限の支えですよ」
 店主が笑うとヤニで黄ばんだ前歯が剥き出た。
 男は怪しげに思いながらも、酒が回って気が大きくなってきていたこともあり、その会員制の飲み屋とやらを覗くことにした。
 店の裏は、物置になっていたが、湿ったダンボールを避けると底に鉄板の引き戸が顔を出した。
 男の足がすくんだ。
「これが入り口かよ、物騒だな。まだ戦時中みてえだ」
「へえ、まだ続いてますぜ。戦争は」
 店主から出る言葉が、初めて重々しく感じた。男には、それが復興するまで、戦争の爪痕が消えるまで敗戦という名前の十字架を背負って生きなければならない、という意味に思えた。
 戸を開けると、地中に伸びるコンクリートそのものの階段が現れた。
 男は降りる店主の後を追う。
 白い蛍光灯が一定間隔で階段を照らしていて、進むと道が暗くなったり明るくなったりする。長い階段だった。
「こちらです」
 店主が店、と指し示す赤茶けた鉄扉。
およそ飲食店の店構えではないが、中から男たちの陽気な歌声が聞こえる。
 男は扉を押して開けた。
「すすーめー、いーちおーく、火のーたまーだー!」
 腕を振り軍歌を合唱する軍服姿の男たち。
 そこは殺風景だが、調理場に置かれた鋸や刃渡りの長い出刃が生々しく存在感を醸し出していた。そして妙な熱気と、異様なほど漂う血の臭い。
 男が呆然としていると、店主に背中をどんっと押され倒れ込む。
 ぎぎぃ、と、入り口の鍵が締まる音が背後から聞こえ、すぐに錆びた音は鳴き止む。
 軍服姿の男たちが、一斉に倒れた男を見る。店主が、客らしき男たちに呼びかけた。
「活きのいいのがとれやした。なんにしやしょう」
 ローストにしよう!
 まずは活造りだろ!
 よく茹でて臭みを抜いてくれ!
 俺は血酒をくれ!
 血気立った男たちのリクエストが飛び交う。
 男は察した。このままでは食われる。
 戦争での飢餓状況下において、人の味を覚えてしまった兵隊どもに食われてしまう。
 しかし、動こうにも動けなかった。
 さっきの酒か、もしくは串焼きか。
 店主が男の耳元で囁いた。
「この通り、戦争はまだ続いてますぜ」
 男の目の前にタライが見えた。
 刃の細い包丁が光っていた。
 口が回らなくなっていた。
 店主はパフォーマンスさながらに、男の活け締めを始めた。


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【罪状】風営法違反

無許可で飲食店を経営していたため。

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