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【掌編小説】閉塞された公園で

 その公園に行くと、少年は色の落ち込み始めた空に小さな両手をかざして立っていた。
 公園は団地の棟に隙間なく囲まれていて、まるで外部の目から逃げ隠れているように見える。そのため、冬の陽が浅い頃には棟の影に沈み、寒い。少年の半そで、半ズボンの姿は今の気温の中では異様だった。
 俺は隅のかび臭いベンチに腰掛けて、缶のボトルコーヒーを開ける。遊具には目もくれず、すべり台の踊り場で手を頭上にかざし続ける少年を背景に、短い湯気が漂った。
 夕方の公園には、同じ場所に同じ姿の少年がいつもいた。マスクをしているので表情こそ見えないが、彼が空に助けを求めていることは不思議と感じ取れた。
 高校帰り、帰宅する気になれず公園に立ち寄る度、彼がいた。それを眺めるのが日課なのだけれど、今日は違う。家に帰らなくてもいいのだ。
 だが、足が公園に向いた。情景反射なのだろうか。
「飲まないの?」
 突然飛ばされた大声に肩が震えた。気が付いたら、少年が手を下して俺の方を見ていた。彼から声がかかるのは初めてだ。
 俺はコーヒーキャップを開けたまま口を付けていないことに気付く。「ああ」とこぼして、急かされるように一口含む。
 少年はすべり台の傾斜を走って下りる。はしごにもたれる傷だらけのランドセルはそのままに、すたすたと俺の方に近付いて来て、目の前で止まった。
 今まで何度も見た姿だが、急に近寄られると妙に怖く、戸惑って言葉が浮かばない。
 少しの間の後、少年が先に口を開いた。
「お仕事終わり?」
「え、いや、高校生だけど」
 心外に思っていると、少年がその理由を指で示した。
 そういえば、今日、俺は喪服だ。
「ああ、これはお葬式で着る服。仕事じゃないよ」
「誰か死んじゃったの」
「うん、親父がね」
「ふぅん、あんまり悲しそうじゃないね」
 無礼だな、との苛立ちは一瞬で消えた。実際、悲しんでいないのは図星だった。
 少年は隣に座ると足をぶらぶらさせて、再び頭上に手をかざし始めた。不意に核心を突かれて、俺は意味もなく手の甲に視線を落とす。
「君はいつもここで何しているの」
 何となく聞いてはいけないと思っていたことが、焦って口からこぼれる。少年は冷静だった。
「スートラマンと交信しているんだ」
 地球征服のために襲来する巨大な怪獣を倒す正義の味方、スートラマン。親の代から続く、長寿の特撮番組のヒーローだ。
 何を交信しているの、という俺の問いを流して、少年は顔をこちらに向けた。
「スートラマンっていると思う?」
 少年の目には寂しさが濁っている。スートラマンしかすがるものがないのだと直感した。
「どうだろうな」と俺は腕を組んで、わかりやすく考え込むモーションをして逃げる。
「いてもらわなくちゃ困るんだけどなぁ」
 少年は手を下してがっくりと頭を垂れる。スートラマンを信じる純粋さが可愛くも見えるが、ランドセルを見る限り小学生だ。毎日公園で交信していたら、学校で苛められないのだろうか。段々、可哀想に思えてくる。
「助けを呼んでいるなら、話してごらん。スートラマンほどじゃないけど、俺も強いよ」
 喪服の上から盛り上がりもしない力こぶを作り、腕を向けた。少年はため息で返す。
「無理だよ、小さいもん」
「スートラマンくらい大きくないとできないことなの?」
「そりゃね」と、少年は斜め前の棟を見上げる。つられて、俺も少年の目線の先を見た。
「君の家はあの辺なんだ」
「うん、あの五階。お父さんと二人暮らし」
「へえ、ウチと近所だ。今まで団地で会わなかったのが不思議なくらい――」
「スートラマンに団地を踏み潰してほしいんだ」
 食い気味な言葉には、妙な気迫があった。
 公園に棟の隙間風が入り込む。ボトル缶がすでに冷めていたこともあって、手がかじかむ。それでも少年は凍えることなく、半ズボンの先の細い足を揺らしていた。
 言葉を探してとっさに出たのは、今の状況にはどうでもいいことだった。
「団地を踏みつぶすなら、スートラマンじゃなくて怪獣じゃないかな」
「どうして? スートラマンは悪もんをやっつけるんだよ」
「悪もんって」
「僕のお父さんは悪もんだから」
 少年が俺に振り向く。
 睨まれているような眼光。だけど、なぜだか、目を逸らしてはいけない気がした。
 少年はマスクを外して、唇の右端にある丸い火傷痕を指さした。すぐに煙草を押し付けられた痕だとわかった。「これだけじゃないよ」と言って、寒空の下、躊躇なくシャツをめくり上げると大小無数の青あざが顔を見せた。
「悪もんでしょ」と言った言葉が自慢気だったのが、悲しかった。
 言葉を失った。助けられると言った自分を恥じた。俺に、助けられるはずがない。それでも少年は歯を見せた。誰かと話すのが久々なのか、楽しそうに続ける。
「でも、お父さんは親戚だとか、お仕事仲間だとかには評判がいいんだ。男手ひとりで僕を守る素敵なパパだって。だから、誰に相談しても信じないんだよ。しかも、相談したのがバレるとまた怒られる。
 だからね、家の中のお父さんを知っている人じゃないと、助けてもらえないって気付いたんだ。スートラマンなら全部わかっているはずでしょ」
「いや、きっと――」と返したが、言葉が続かない。きっと誰かが助けてくれる、なんて口が裂けても言えない。

 この先も、誰も助けてくれないと、気付いたのだ。
 
 俺は少年の肩を抱いて震える声を絞った。「大丈夫、君が俺くらいになるころには解放され――」
 言い終わる前に、少年は俺の腕をするりと抜け、ベンチから下りて俺の正面に立った。少年は笑っていた。

「強がらなくてもいいよ」
 少年の声が公園の空気を裂いた。

 夢の中にいるかのように、急に思考回路が変わる。止めどなく溢れる虚しさ、悔しさ、切なさ。それらは、少年の言葉に引き出されるように、ぼろぼろと口から心の濁った部分としてこぼれていく。
「父親が死んだら悲しむのが息子だろ。確かに理不尽をぶつけられてたのは許せない。でも親父がいなかったら、今日まで食えもしなかったし、高校までも上がれなかった。それに葬式じゃ親戚も仕事の連中も、皆が皆、涙を流していて……。
 悲しまなきゃいけないんだろ、いくら蹴られたって、殴られたって、悲しまなきゃ」
 自分の膝を殴りながら、駄々をこねるように地団太を踏む俺がどれだけ醜いかは、自分でも痛いほどわかっている。もっと醜いのは父が死んで安心してしまっている心だ。
「でも、涙が出ない」
 うなだれてひり出した細い声が裏返る。
 少年が足で土に円を描くと、左耳に垂れ下がったマスクが揺れた。
 木枯らしが頬に刺さる。
 棟の僅かな隙間から抜ける風は針のようだ。でも、公園の周りを巨大なコンクリートの壁が立ち塞いでいるから、外からその痛みは気付かれない。痛がる様子すらも、痛がる声も、誰にも。
 まるで、親父の虐待に誰も気付いてもらえなかった俺みたいに。
「大人になったら悲しまなきゃいけないルールなんだね」と、少年は地面の円を足で消しながら呟いた。
「それ、もらっていい?」
 少年は返答を待たずに俺の手からコーヒーを抜き取って、口に含んで、すぐに眉をひそめた。
「にがっ」。舌を出して縮こまって、泣きそうな声で続けた。
「こんな不味いものも飲まなきゃいけないルールなんだ。だったら大人になんかなりたくないな」
 少年は隣に跳ぶように座って、また空に手をかざした。先よりも強く念じている。
「スートラマンなんかいないよ」
 俺の口をついて出たのは紛れもない八つ当たりだ。気が晴れるわけでもないのに。
「いたじゃん」
 少年の返す言葉は誇らしげだ。
「スートラマンに伝えたんだ。お父さんを殺してくれてありがとうって」
 少年が目を見開いて、「僕なら喜ぶよ」と俺に無邪気に笑いかける。
 棟の僅かな隙間から西日が差して、一筋の橙の光が少年の頬を照らす。タバコの火傷痕が宝石のように輝いた。
 生まれて初めて、この公園に日が差すことを、知った。

「だって、お父さんの人生じゃないもん。僕の人生でしょ」 


 寒気に身震いをして、日が落ちていたことに気が付いた。
 小学生の俺は、いなくなっていた。
 夢でも見たのかと思い、頬の火傷痕の辺りを掻くと、そこにその感触はなかった。そうだった、もう随分前に治ったんだった。代わりに指に感じたのは湿り気だ。涙を流していたようだが、理由は覚えていない。
 冷え込みに我慢ならず、そそくさと公園を抜け出すと、団地の五階の住居へ小走りする。
 帰り際に口にしたコーヒーが、なぜだかいつもより、苦く感じた。



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【罪状】建築基準法違反

団地の号棟が高すぎて、近隣住居の影になっているため。

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