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【短編小説】安里博士の昆虫記

 恐らく、遠くも近くもない未来の話。
 科学の発展は著しく、令和大学は『人間の身体は知能を低下させることなく人差し指ほどのサイズにまでミクロ化が可能である』という論文を発表し、学会では医療分野への実用化は99%成功可能との見解を大々的に述べた。翌年には、研究チームのリーダーが史上最速でノーベル科学賞を受賞し、そのSF的な発表は巷でも時の話題となってSNSを埋め尽くした。一般人にとっては、ひと昔前の、この小説の世界では大分前の宇宙旅行ほどの距離間のある夢だと思っていただきたい。
 その5年後、『ミクロ化は一人当たり1日10億円かかる』『ミクロ化から戻った研究者には重篤な後遺症が残った』『女優との交際の噂が立っていたとあるネットアパレル会社の社長は、一緒にミクロ化してほしいと彼女に懇願して振られたらしい』など、根も葉もない都市伝説が流行っていた頃。昆虫学の全ては彼の脳に帰結するとまで評された昆虫学者、同令和大学の名誉教授・安里あんり博士のベストセラー『新時代昆虫記』の50版目が販売を開始した。
 その内容は、新時代と謳ってはいるものの、今から30年以上も前の昆虫研究とそれに際する博士の姿勢と人生を記述したものである。逆に言えば、長い年月を経ても30年以上前に安里博士が明らかにした研究成果は塗り替えられていない、ということになる。
彼もまた、かつて時代の寵児であった。しかし、現在の安里博士の行方を知る者はほぼ皆無とされている。
 新時代昆虫記に記された探検記や実験記は、純粋な読み物として楽しむ分には面白い。しかし本書をドキュメンタリー、もとい研究資料として読んだ一部の読者からは、自然保護対象とされている世界各国の森林や山に無断で侵入し、絶滅危惧種の昆虫でもお構いなしに採取し、かつ生物学界からすれば非人道的な昆虫実験を繰り返す、極めて暴虐的でアンモラルな雑記であるとの批判が挙がった。この頃既に成熟期を迎えていた情報社会がその批判の拡散に拍車をかけ、各SNSでは安里博士を『クレイジーな偉人』として話題になる。安里博士の死後であればまだ、異常性もひとつの天才の特長として高尚にも見えただろう。だが、生存しているとなると話は別だ。批判意見のみを目にした本書を読んでいない者からの否定的な意見が相次ぎ、炎上商法と揶揄されるまでに本書の価値は軽々しいものとなった。更には、その研究成果を眉唾な説で否定する学者まで出現した。それでも重版が続く理由は、精巧な研究書としてではなく、奇書として笑われているからだ。令和大学の評価は、安里博士の下馬評が広まるに連れて落ちて行った。
 そんな折である。安里博士が忽然と姿を消した。
 学会にも顔を出さなくなり、令和大学にも籍だけは残こっているが登校する姿は見られなくなった。研究室は事実上解散になったとメディアは報じた。
『引退し隠居したのではないか』『学会を追放されたのでは』『死んだのだろう』と、様々な噂が飛び交ったが、その理由のどれもが『批判的な意見に耐えかねて』であった。安里博士も人の子だったのだと、落胆、手の平返しの同情、自業自得と未だ続く批判に各々の感情は完結し、彼の存在は薄れ始める。
 しかし、彼は生き、研究を続けていると証明する出来事が起きる。それが、新時代昆虫記50版目に記載された、とある募集文言だった。
 ブックカバーの背表紙には、赤枠で囲われて、こう書かれていた。

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■ ■ ■

 Aは令和大学附属の総合病院にて検査入院している。実験前に本当に健康体であるか調べるためである。入院して丸2日、辛かったのは病院食の味の薄さくらいで、映画や漫画と暇を潰せる娯楽はある程度揃っていたし、適度な運動が義務化されていたおかげか夜は個室にて十分な時間熟睡ができた。情報漏洩防止のため携帯は入院時に没収されたが、テレビも新聞も週刊誌もあり、外からの情報に困ることもなかった。
 明日、現在安里博士が拠点としている実験施設へ向かう予定だとAは知らされている。待ちに待った対面への昂ぶりはありながも、健康的な生活に体が馴染んできたおかげで、その夜もぐっすり眠ることができた。
次の日、Aはバラバラというプロペラ音に目を覚ました。
 黒いクッション製の座椅子に腰を沈ませていて、シートベルトが巻いてある。窓はないが、浮遊感と揺れと音からAがいる密室が空を飛んでいることがわかる。Aはそれが自動運転のヘリコプターだと察した。自動運転の自動車はとうの昔に実用化していたが、ヘリコプターまでこの仕様での運転が成功していたとは知らなかった。Aは改めて、安里博士の財力に舌を巻いた。だが、令和大学の評判を貶めた安里博士に、大学がそんな多額の予算を割いてくれるだろうか。Aにとっては甚だ疑問であった。
 目を覚ましてみると、プロペラ音がうるさく聞こえる。余程熟睡していたらしい。
座椅子の手すりにはボトルホルダーが備え付けてあり、一本のミネラル水のペットボトルが差してある。付箋で「改めまして、ご当選おめでとうございます。健康状態維持のため到着まで水分補給をしてしばらくおまちください」と貼付されていて、どうやら拘束状態にあるわけではなさそうだと、Aは一瞬浮かんだ不安を収めた。
 しかし、密室ではどうも気が休まらない。それは恐らく、研究所への経路を明かさない為だろうが、目的地がわかっていても本当に順調に向かえているのか心配になる。
 自動運転では勿論話す相手もいない。Aは耐えかねて、壁に備え付けられている、管理部との連絡用の受話器に話しかけた。
「はい、管理部です」。機敏な声がワンコールもしない内に返ってくる。
「あとどれくらいで着くんだ」
「約10分ほどになります」
「10分もこの狭苦しい密室で待たなければならないのか。他にも当選者はいるんだろう。何をして過ごしている」
「他のご当選者様は、対面した際のイメージトレ―ニングをされる方、ゆったりと想いに耽る方、新時代昆虫記を再読される方と、様々な過ごし方で安里博士にお会いできることを心待ちにしております」
「新時代昆虫記? 入院の時に私物は大方没収されたはずだぞ。博士の著書ならの持ち込みは許されるのか」
「いいえ、説明が不足しており申し訳ございません。座椅子の足元にポケットがございます。そこに新時代昆虫記がございますので、ご自由にお読みいただいて結構でございます」
「わかった。ありがとう」
 Aが受話器から耳を離した際、僅かに「良い体験を」と聞こえたが、構わず切った。
 Aはあれだけ批判的な意見が相次いだ安里博士にこんなにもまだ熱心な信者がいたことに驚いたが、既に50版目という人気振りを思い出し納得した。
 管理部の言った通り、座椅子の脚の部分にはポケットが下がっており、文庫版の新時代昆虫記の表紙が顔を覗かせていた。シートベルトを締めたままでも、少し屈めば手に取れる距離だ。Aはたったの10分間を潰す当てがなく、それを片手で取りページをパラパラと捲った。新品である。恐らくこれも50版目だ。
 プロペラ音がAの鼓膜に重くのしかかる。
 4章の小見出しで手が止まった。『4章 昆虫の生存戦略と人類の進化の可能性』とある。批判に火を点けた最も問題視された章だ。内容のほとんどは実験過程とその結果に占められている。
 人類の歴史よりも遥か古より、過酷な環境下に晒されながらも進化を繰り返すことで生命力を維持してきた昆虫。その能力を人類に添加することができれば、人類は多くの環境への適応力を発揮し、人類の地球生存率を格段に高めることが可能である、と仮定した安里博士は自らのDNAに各昆虫のDNAを組み合わせる実験を始めた。重要なのは、安里博士が生み出そうとしたのは『人類の能力を兼ね備えた昆虫』、ではなく、『昆虫の能力を兼ね備えた人類』、ということだ。要するに、安里博士は自らを実験台に昆虫人間を創造しようとしたのである。
 結果、適合するDNAは存在したが人類との倫理的な共生は不可能、と判断した。それ以降には、共生が不可能である理由が、DNAが適合した各昆虫ごとに事細かに記されている。
 一部の研究者が非人道的だと指摘をしたのは、主にこの部分である。
 仮に、本書通り、安里博士の身体を使って昆虫のDNAを組み込むことに成功したとしよう。その後、無事昆虫人間となった安里博士が、理解のある研究室員と普段通りに共同生活を試みてみる。結果、実験は失敗、共生は不可能と判明した。ここまでは良いのだ。問題は、『各昆虫』の結果が記されていることにある。
 安里博士はどうやって一度組み込んだDNAを人類の正常なDNAに戻したのか。
 安里博士はどうやって次の昆虫のDNAを組み込んだのか。
 安里博士があるひとつの昆虫のDNAを組み込んだ状態まま、他の昆虫のDNAを上乗せしたとすれば、それは個々の昆虫人間の実験結果としては成立しない。だが、実験をする昆虫分と同じ数の安里博士が存在すれば話は別だ。現代科学でのクローンの創造は決して難しいことではない。しかし、莫大な実験費用を要する。新時代昆虫記を発行する以前の安里博士にそのような多額の予算がないのは火を見るより明らかだ。
 この状況下で実験を行う方法は、他者を使った人体実験、しかあり得ない。一部の研究者たちはそう断言した。これが非人道的だと言われる所以である。
 起訴する研究者もいた。しかし、証拠不十分により不起訴に至っている。何かの権力により揉み消されたと、未だに再度起訴を試みようとする研究者もいるが、昆虫界において安里博士に歯向かおうとするその姿勢に付いて来るものはいなかった。大方が外野からエンタメとして都市伝説だと騒ぎ立てるのみだ。
 だからこそ、批判が多く上がりながらも、本書が奇書として愛され、熱烈なファンが後を絶たないのだ。
 それに対して、Aは怒っていた。4章の小見出しのページを開く手に力が入り爪が食い込む。歯を食いしばって、とある想いを込めてページに穴が空くほど視線を送った。
 Aは研究者ではない。しかし、安里博士のファンでもない。
 Aは新時代昆虫記を床に叩き付けると、ペットボトルをホルダーから奪うように掴んで浴びるように水を飲んだ。読まなければよかった、いや安里博士に対面する前だからこそ読むべきだったのだ、と溜飲を下げた。
 ガコンという上下振動がしたと思うと、プロペラ音が止んだ。研究施設に到着したらしい。
 ただ一つの鉄扉が空気を吐き出しながら開くと、そこはもうコンクリートに囲まれた室内だった。正確には、立体駐車場型のエアポートと言ったところだろうか。
 Aの目の前には黒光りした自動ドアと、ネクタイを締めたワイシャツに白衣を羽織った男性が笑顔で立っている。どこかで見たような顔だが、どうも思い出せない。
「空の旅、お疲れ様でした。いかがでしたか」
 白衣の男性は能面のような笑顔で言う。声の調子から電話をした管理部と同一人物だとわかる。
「ああ、最悪だったよ」
 Aは目を合わせず答えると、白衣の男性が指し示す自動ドアの中へ入る。
 自動ドアの黒いガラス越しには伝わらなかった、眩しいほどの純白を放つ床や壁がAの目を細めさせる。
「どうしてこんなに白いんだ」
 反射的に言葉が出る。
「黒色系の昆虫が侵入した際に発見しやすくする為です。さあ、安里博士のご対面はすぐです。こちらのエレベーターにお乗りください」
 白色が壁と同化していて、ドアが開くまでそれがエレベーターとわからなかった。対してその中は奥が見えないほど漆黒だ。どこまでも闇が続いているような気さえしてくる。
「どうしてこんなに黒いんだ」と吐きながら、Aは白衣の男性の後に付いてエレベーターに乗り込む。
「白色系の昆虫が侵入した際に発見しやすくする為です。安里博士もあなたと会えることを心待ちにしていました」
先程から、白衣の男性が気分を高揚させようと煽ってくるのがAには気味悪く感じられた。しかし、自分以外の当選者は恐らく、この文句に気持ちを高ぶらせ、目を輝かせ今にも安里博士の幻影に飛び付こうと興奮しているのだろう。Aがその熱狂的なファンの様子を想像した途端、胃液が込み上げてきた。
白衣の男性が4Fの文字が光るボタンを押す。ここは1階らしい。
 静かに上昇するエレベーターですら耳障りだ。2F、3F……と点滅が移動する度、Aの血も頭に昇ってくる。ここに来るまでの経歴、果てはファンを装い安里博士への熱烈な想いを書いたその嘘にまで反吐が飛び出しそうになる。やはりヘリコプターの中で4章など目にしなければ良かったと、後悔した。
 4階でドアが開くと、また壁の純白が目に刺さる。横一線に果てしなく伸びる廊下に沿って、等間隔でドアが並んでいる。Aがそれをドアだと理解できたのは、各ドアが白ではないカラフルな着色がなされているからだ。
「黄緑色のドアの部屋に入室してくださいませ」
 白衣の男性がAから6つ分ドアを挟んだ向こうを指し示す。
 Aはそのドアの前までひとりで歩き、ドアノブに手をかけた。汗が滲む。少しでも冷静さを取り戻そうと、長い深呼吸を何度か繰り返した。その間も白衣の男性はエレベーターの前から貼り付いたような笑顔をAに向け続けている。
 Aは安里博士を殺す決意を固めた。ドアを開くと、「良い体験を」との声がAの落ち着かせた心をまた怒りで熱くさせた。
 中は真っ暗だった。しかし、その暗さはエレベーターの人為的な黒色ではなく、単に電灯が点いていない色だ。
足を踏み入れると、ドアが突然閉まる。同時に、重い鍵の締まる音が弾けた。金属の振動する音から、それが鉄扉だとわかる。
ドアが閉まる一瞬、隙間から覗いた白衣の男性の表情は無感情だった。
 Aが暗闇に放られて間もなく、部屋の灯りが点く。コンクリートの地肌がむき出しになった壁に電灯が埋め込まれている。全体を照らすには余りに少なすぎる数の灯りは、電灯が電灯の影を作り出しているといった具合で、真夜中の裏道を想起させた。
 その中でもひと際長い影がAの足元まで伸びている。真向かいに立つ白衣姿をした老人のものだ。しかし、案内役の男性の白が眩しい白衣ではなく、汚れで灰色になりつぎはぎが右往左往に走っている布切れである。
老人は怒りとも悲しみとも感じられる表情だ。顔中の皺を深め、口をへの字に結んでいる。皺の凹凸が顔に更なる影を作り出し、Aを凝視している。
 彼は、紛れもなく安里博士だった。Aの記憶の中にある男よりも遥かに老けているが、安里博士であることは間違いようがなかった。
忘れるわけがない。Aの妹はこの男に殺されたのだから。
 兄妹仲はお世辞にも良いとは言えなかった。Aの妹への愛情は一方通行で、それは妹から見ても、世間的に見ても過保護を通り越したお節介焼きだった。
 喧嘩は毎日していたが、その日に限って妹は家を飛び出してしまった。
 携帯の繋がらない妹をAは三日三晩捜索したが、待っていたのは放射能標識の立つ野原に転がる冷たい妹だった。
 異様な遺体だった。瞼の奥は全てが黒目で、背中は黒く光る油でコーティングされた堅い羽に覆われ、湾曲した棒が頭蓋を突き抜けて穴の隙間から黄緑色の血が泡立っていた。それを、虫の触覚に似ていると思った瞬間、Aは妹がゴキブリにされたことを理解した。
 その異形が放射能の影響で変異したものだとされ、事故死として片付けられてから10年余り、Aが安里博士を殺す日を思わない日はなかった。
 それが、Aの知る新時代昆虫記に記述された実験が他人を使った人体実験であったことの何よりの証拠である。そして今日、Aが本書の記述でもうひとつ確信を得たことがある。
 目前の安里博士の目は黒く、脳天からは触覚が二本。確かに、自身へも昆虫のDNAを組み込んでいるということだ。
 その姿に追想するゴキブリとして死んだ妹の亡骸の記憶が、Aの脳内を滾らせた。
「あああああああああああ」
 Aの叫びに理性はもはやない。血走った眼から止めどない涙をこぼしながら、安里博士に飛び掛かる。
 しかし、安里博士は寸での所でAの突進を、高く飛び越えAの後方に着地した。白衣の裾を破り跳び出した安里博士の脚は、あばらの辺りで膝が屈折し青筋立って盛り上がっている。黄緑色の光沢を帯びた脚は、バッタのそれだった。
「ふぁんなら、わたしに、じゅうじゅんだから、しょうたいしたと、きいていたのに、なんだこの、ざまは」
 安里博士が口を開くと、中から鋭利な赤いあごが覗く。黒い涎を垂らしながら鼻息荒くAに振り返って対峙する。
 Aは転んだ拍子に潰れた鼻柱を気にも留めずに、また安里博士に突進を仕掛けた。
「聞いていたじゃねえよ、てめえが呼んだんだろ!」
 2度突進しても結果は同じである。安里博士は天井間近まで跳ね上がり、Aの頭上の空を切った。
 しかし、Aは突進を避けられる予想をしていた。安里博士が跳ねた瞬間、Aは踵を返し、逆走する。バッタである安里博士には、着地してからAの方の向き直るまでインターバルがある。向き直った時には、目の前にAがいた。
「引きちぎってやる!」
 Aは安里博士の頭にのしかかると、振り回されながらも触覚を掴んだ手に全力を込めた。
 安里博士は人の声とも虫の音ともつかない悲鳴を上げ、再び跳ね上がった。その跳躍力は天井にまで優に届き、Aを天井に叩き付ける。
 阿鼻叫喚の最中、凄まじい音を立てながら、何度も何度もAの頭と体が天井を叩く。途中、触覚が一本千切れたが、安里博士は跳ぶ脚を止めない。回を追うごとに天井にヒビが走り出した。一人と一匹はそれに気付くことなく、天井への体当たりを繰り返す。
そして、Aの気が失いかけてきた頃、それは起こった。
バリンっ。
 巨大なガラスが割れる音が響く。飛び散った天井の細かな破片はAの体に刺さり、大きな破片は安里博士の脚を切り落とす。
 Aが、天井がマジックミラーになっていたと気付いたのは、床に落ちてからだった。
天井の大きな風穴、いや、Aにとっての大きな風穴越しに見えたのはこの部屋よりも巨大な顔だった。唐突な光景にAの脳が追い付いていない理由は、疲労でも、体の痛みでも、安里博士への怒りでもない。情報量の多さ、だ。
「安里に恨みを持っているのなら、ハガキにそう書いてくれれば良かったんだが」
 部屋を眼鏡の向こうから見下ろす巨大な男が、白衣の襟を正しながら言った。
 Aは男の顔を見て、案内役の白衣の男をどこで見かけたのか思い出した。
 テレビ中継だ。『人間の身体は知能を低下させることなく人差し指ほどのサイズにまでミクロ化が可能である』、その証明は日本を揺るがし、世界を揺るがし、史上最速でノーベル科学賞を獲得。医療分野の発展に大きく貢献した。当時、どこのチャンネルを回してもニュースではその研究チームの取材ばかりを取り上げていた。その研究チームの一員だ。
 そして、眼鏡をかけた巨大な顔の男は、そのチームのリーダーだった。
〈びいいいいいいいいいいいいいいい〉
 突然、部屋の外からサイレンのような音が投げ込まれる。余りの音量に天井の割れかけたガラスが振動して落ちた。
 男はAのいる隣の部屋を上から覗きながら、眼鏡を中指で上げて鼻で笑った。
「Bの部屋は騒々しいな。さすがセミだ。被験者は耳から目から血を噴出しているよ。君にも見せてあげたいね」
「おお、Cの部屋じゃ被験者が捕食され始めたよ。惨いな、何も足から食うことないのに。カマキリってのは恐ろしい」
「Dは見てられないな。ハエの部屋だよ。被験者の腹に管を刺して産卵している。ハエは幼虫の餌になるものに卵を産むからね。あ、ハエって言ってもイエバエの方ね」
 部屋を覗いては続々と実況する男に、Aは虫の息で尋ねた。
「なんだこれは」
 男はAの部屋を天井の間近まで顔を近付け、得意げに語った。Aからは眼球だけしか見えないが、口元は笑っているのがわかる。
「なんだって、わざわざ実況してやったのにわからないのか? 安里の実験の再現だよ」
「再現って、あの4章の」
「わかっているじゃないか。そうだ、あの非人道的な人体実験だよ。安里は被験者に使えそうな人間を拉致して、昆虫のDNAを組み込んだ。そして当時の自分の研究チーム、いやアイツの場合は弟子と言った方が適切かな。ともかく、自分の抱える人間と共同生活をさせたんだ。結果は散々、新時代昆虫記に記されているよりももっと悲惨なものだった。君たちが被験者になった今日のようにね」
 妹は拉致された上に、ゴキブリにされ、安里博士のように理性を失い暴れ回ったのか。Aのその想像がまた腸を煮え滾らせた。
「ふざけるな!」と、血反吐でうがいをしながら絶叫する。
「そうだろ、そうだろ」
 男は嬉しそうだ。
「僕たちのチームも君と全く同じ気持ちだ」
「ならなぜ再現なんてしたんだ」
「害虫駆除だよ。
 折角、僕らのミクロ化成功という偉業で世界一の頭脳派大学にまで高めた令和大学のブランドを、安里が残した新時代昆虫記なんて負の遺産が時限爆弾のように批判の大爆発を起こして、地に落としやがった。まだ安里が肯定されていた時代には、僕たち令和大学の下っ端チームが被験者の隠蔽なんて雑用までこなしてやったってのに。恩を仇でとはこのことだ。令和大学のイメージは、ミクロ化成功ではなく、今じゃ奇書の著者が名誉教授として籍を置く狂人製造校だ。
 それなのに、新時代昆虫記の人気は落ちるところを知らない。今の時代のモラルに反する実験が、ここまで明るみになっているにも関わらず。
 なぜだかわかるか? いつまでも安里さま~安里さま~と目ん玉ハートにして追い掛け回す、自分も昆虫界も客観視できない安里のファンという害虫がいるからだよ。
 それで、今の時代に紙の本、それも50版目なんて買う酔狂なファンを集めて、安里がやった実験がどれだけ非道なのかをしっかり教え込んで駆除したんだ。
 もうわかっていると思うが、安里はとうに死んでいる。そこに文字の如く虫の息でゼエゼエ言っているバッタは、安里のDNAをバッタに組み込んだものだよ。セミも、カマキリも、ハエも。
 計画性のない安里と違うのは、人間を実寸大で使わないことだ。入院生活の最終日、夕飯に混ぜ込んだ睡眠薬でぐっすり眠っている君たちをミクロ化して、ここまで運んだ。目覚めた時にそれが室内仕様に改造したドローンだと気付かれないか冷や冷やしたよ。だが、この通り、バレずにすんだ。
 ミクロ化した君たちのいる場所は、巨大な研究施設なんかじゃない。令和大学研究室内の箱庭だ――おい、聞いているのか?」
悦に浸った男の話は長かった。その間にAは息絶えてしまっていた。
 最期に思ったのは、妹の顔か、安里博士の顔か、男の顔か。誰にもわからない。
 男は、バッタの姿をした安里博士を摘んで、被験者Aの隣に密着させた。
「同志だったんだね、残念だよ。だが、証拠は無くさねばならない。バッタは基本草食だが、腹が空いていると共食いも厭わない昆虫でね――」
 男はまたひとり、自分の成し遂げた復讐に酔うかのように話を始めた。
 被験者が全員死んだその箱庭の前で。

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【罪状】航空法違反

ドローンの航空禁止区域への侵入、かつ危険物(人間)を乗せての飛行をしたため。

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