【掌編シリーズ】松井不幸譚
「松井さん、火事です! 助けてください!」
朝6時を少し過ぎた頃、松井は玄関から聞こえる叫び声と、連打されるチャイムの音に耳を塞いで、布団の中でうずくまる。
松井とは、痩せたいと思って趣味で新聞配達(走って団地を回る朝刊配達)を始めるが、帰った後に夕飯で残ったご飯をお茶漬けにして食べてしまう(この時間に食べるお茶漬けが一番うまい)せいで一向に痩せない(足の筋肉が付いてきたからと本人は言い訳している)、ただの怠惰な31歳の一般男性である。特段、周りを惹き付けるほどの魅力もなければ、嫌厭されるほど倫理観に欠ける奴でもない、所謂"普通"の男性。
ただ1つ、他人よりも命の危険にさらされやすい性質を除いてはーー。
「お願いです! 火事です! 松井さんと私の縁でしょう!」
チャイムだけにとどまらず、ドアもノック、というより叩きながら叫び続ける。3日前から毎朝こんな調子である。
松井はひたすら無視を決め込んだ。朝刊配達の後で疲れているのだ。寝させてほしい。
それに何より、火事なわけがない。松井はアパート住まいである。アパート内の非常ベルが鳴っているわけでもなければ、近隣住民が騒いでいる様子もない。第一、昨日も一昨日も火事だから助けてくれ、と助けを乞うて来たが、火事どころかボヤが出たような話すらなかった。というか、火事だから助けてくれ、とは何なのだ。火事なら、「逃げろ」じゃないのか。しかも、今日に限っては「松井さんとの縁でしょう」だとか言っている。ドアの向こうで叫んでいるのは、ゴミの収集場で1度挨拶を交わしただけの、名前も知らない中年男性だ。大体、その時ちらっと見えたゴミも何だか妙なものだった。肉のようなものにパイ生地みたいなものが被さったようなものに見えたが、恐らく、独り暮らしで張り切って料理の材料を買い込んだものの、結局面倒臭くなって何もせずに腐らせてしまった可哀想な食材たちだろう。いい歳して計画性のない奴にロクな奴はいない。
そんな自分のことを棚に上げて思案を巡らした末、松井は別の階の頭のおかしな住民が戯言を触れ回っているという結論に至った。
しかし、3日連続これでは、眠れずに心も体も疲れてしまう。松井は、意を決してアパートの管理人に苦情を伝えることにした。
松井は昼に掛けたアラームを無視して、スヌーズ機能に5度叩き起こされた後に、ようやく起床。適当なジャージを着て、1階の管理人室に向かった。
管理人室の窓をノックすると、マンションの名前が書かれたジャンパーを羽織った眠たげな老人が窓を開けて顔を覗かせる。
「何ですか、どうしました」
何だか昼寝を邪魔されて少し苛立っている様子だ。小心者の松井は、こういう態度を前にすると途端朝の狂人への怒りは失速し、腰は低く下手になってしまうのである。
「あの、大したことじゃないんですけど」
「大したことじゃないんだったら来ないでくれる?」
反射的に「すみません」と溢してしまう。完全に管理人に気圧されてしまっている。いや、怯えるな松井。大したことなのだ。3日連続、妄言に眠りを妨げられるのは大事だ。
「あのですね、あ、4階の松井です」
「はい」
「ここ3日間、朝に『火事です』って起こされていまして」
「火事? 火事なんか起きてないよ」
「そう、なんですよね……」
「何が言いたいの」
管理人がみるみる苛立って来ているのがわかる。その様相が更に松井を塞ぎ込ませる。自業自得である。
「つまり、その、火事じゃないのに、火事ですってドアを叩かれたり、ピンポン鳴らされたりして、困ってて」
「え、誰が」
管理人の表情が強張る。
「名前はわからないんですけど、ちょっと太ってる、っていうかふくよかな感じで、眼鏡、あの黒縁の眼鏡かけてて、髪の毛がこう、くるくるしてる、みたいな……」
松井の声は尻すぼみに小さくなっていく。松井はこの『言っている間に自分の言葉に自信が持てなくなっていく現象』にまだ名前を付けられずにいる。
管理人は「ああ、梶さんね」ため息をついて、悩ましげに額を撫でた。
「あの人には関わんない方がいいよ」
「そうなんですか」
「うん、借金地獄でね、闇金にも手え出したもんだからヤクザが借金取りに来るんだよ。それなのに、うちの家賃ももう半年滞納してるし。何に使ってるんだか」
「それって火事とは何も関係ないんじゃ……」
「だから、梶さんだよ」
「カジ?」
「燃える方じゃなくて、名前の!」
火事……カジ……あ、梶さん!
ようやく理解できた松井は、膝を叩いた。つまり、朝の言葉は「梶です、助けてください」ということだったわけである。
松井は一時のスッキリ感で何となく問題が解決したような心持ちになったが、その実、何も解決していないことに気付く。
助けてくれってどういうことだ。
「注意はしとくから。そんなことより掲示板に貼っておいたけど、アパートの敷地内で蛇が出たから、そっちの方気を付けなよ」と、言いながら管理人は窓を締めた。
松井は不安を解消しようと管理人室を訪れたはずなのに、新たな不安を抱えて部屋に戻ることになってしまった。
梶さんの「助けてくれ」の主語は、その状況からすると『借金地獄から』以外には考えられなかった。しかし、無論、松井には無心されるほど金もなければ、縁もない。それなのに、梶さんは「松井さんと私の縁でしょう」とかほざいていた。アパート中に響き渡るような大声で。
その逡巡が、松井をとある不安な結論に至らせる。
翌朝、その不安は的中した。
朝6時を少し過ぎた頃、昨日と同じくドアを叩く音と連打されるチャイム音。違うのは、聞こえてくるのが、叫び声から怒鳴り声に変わっていたことだ。
「松井さーん、梶さんのお友達なんですよねー! 200万ですわ! お友達の責任取ってもらわんと困るんですよ!」
ドアの覗き穴の向こうには、見るからにヤクザという風体の男が2人。片方のスキンヘッドに蛇が交尾しているタトゥーが彫られている。それは本当にカッコいいのか、といういらない疑問が頭をかすめる。
「居留守使っても無駄ですよー! 電気メーター見たらわかるんだから!」
絶えず怒鳴り声が耳を劈く。
梶さんは借金取りの標的を松井に変えるために、大声で松井と縁があるとアピールしていたのだ。その日梶さんを訪ねてきたヤクザにも聞こえるように。
この様子だと、梶さんは今朝飛んだらしい。
松井はこういう時に警察を呼ぶと、逆に目を付けられて、忘れた頃に拉致されるという俗説を信じ切っていたため、一か八かヤクザに事情を話すことにした。
シャツを引っ張られたり、壁を叩かれたり、と様々な方法で脅されたが、結果的には事無きを得た。暴行罪になると一発逮捕なので、直接手を出すことはないのだ。それなのに、チャカ、つまり拳銃は頻繁にチラつかせるから、松井は法というものが何なのか全くわからなくなっていた。
事無きを得られたのは、管理人のおかげだった。昨日の松井の相談を聞いた管理人も、松井宅にヤクザが来る予想をしていたらしい。飛んできた管理人がヤクザに紙切れを渡すと、すんなりヤクザは退散した。紙切れには、梶さんの実家らしき住所が書いてあった。
管理人は「蛇だけ気を付けてね」とだけ松井に忠告して、管理人室に帰っていった。
その背中は松井にとって大きく、頼もしいものに見えた。昨日あれだけ威圧されたにも関わらず、ちょっと助けられただけで評価が一変してしまう、そんな芯がぐらぐらな松井であった。
どうにか平穏な生活を取り戻した松井。
しかし、布団に潜り込むと、とあることが僅かに心にモヤつかせた。
梶さんの借金の使い道である。
多くの場合は、ギャンブル、風俗、仕事の資金……梶さんは何に使っていたのだろうか。
ふと、梶さんが捨てていたゴミ袋の中身を思い出す。
肉のようなものにパイ生地みたいなものが被さったようなもの。
あれがもし、ラットの死体に、巨大な蛇の脱皮後の皮が被さったものだったとしたらーー。
そんなことより、朝刊配達で疲れた体を癒やすことの方が先決である。
松井は蛇の餌代がいくらかかるか調べるなんて億劫なことはせずに、眠りに就いた。
終
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【罪状】プライバシー侵害
松井が梶さんの家のゴミを覗き見していたため。
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