【掌編小説】ワカサギ釣り
青年は凍った湖の上を、滑らないようつま先まで力を入れながら、慎重に歩いていた。アイスドリルに釣り道具、天ぷらキットと大荷物を持参して氷上を歩くのはなかなか体が凝る。それも、宿から全てレンタルした道具だから、雑に扱うわけにもいかず、うっかり落としてしまわないようにと気も張っていた。
古宿でワカサギ釣りの穴場と聞いてやってきた湖には、誰もいなかった。本当に穴場らしい。それとも幾つもある水場を間違えたのか。
なんとなく湖の真ん中に目星をつけ、大荷物を下ろした。折り畳み式の座椅子に腰かけひと息つくと、ここまでたどり着くまでの疲れがどっと体を重くした。
氷に穴を開ける前に少し休憩しよう。青年は疲れに身を任せ放心する。
あまりの白さに青くさえ見える氷上に、ただ一人腰掛けている。風が氷を滑りヒョウヒョウと鳴らす。
何もない。都会の喧騒から逃げるようにして雪国の古宿に慰安に来た青年にとって、何もことは癒やしである反面、不気味だった。青年はその不気味を楽しんでいた。
「アンちゃん、ここ、初めて?」
驚いて冷たい空気をひと息に吸い込む。どこからともなく現れた男性は、市松模様に歯がない。黄茶けたエスキモーのような服を着ている。見るからにホームレスの風体だが、野宿するには寒すぎる。
「はい、あの、ここよく釣れるんですか、ワカサギ」
「ここにワカサギ釣りに来たのかい! ガハハ! 呑気だねえアンちゃん!」
男性は腹を抱えて大笑いする。奥歯がほとんどない口内が覗けた。
見渡すと、男性の釣り場らしき場所が50メートルほど先にあった。簡易的な椅子が三脚あり、他にも仲間がいるようだ。なぜさっき気付かなかったのだろうか。
馬鹿にしているわりには、どう見ても自分と同じワカサギ釣りをしているようにしか見えない。もう既に何時間も粘ったが、不漁で、釣れないことを教えにきてくれたのだろうか。
考えていたら、男性から理由を話してくれた。
「ワカサギなんかよりもっとウメぇもんが釣れるよ、ここは」
男性は、青年の道具を一瞥すると「十分それで釣れる」と口の中の黒い部分を見せてきた。
青年は訊いた。
「何が釣れるんですか?」
訊いてはいけないような気がした。
男性は細い目をギラギラさせながら、青年の足から頭の先まで舐めるように数巡見ると、「ぬぱぷぅだよ」と嗄れた声で言った。いや、言ったよりも、吐いたの方が、適切かもしれない。
聞いたことがない魚の名前だった。いや、魚なのかもわからない。
男性は骨ばった手で青年の右腕を、錆の色の爪が食い込むほど強く握り「見せてやる」と言いながら引っ張った。
向かう先は、先程見つけた50メートル先の釣り場。やはり、男性の釣り場だったようだ。
しかし、近付いてみると、そこがワカサギ釣りをする様相にしては少し違和感があることに気が付く。
氷面に空いた穴は、ワカサギ釣りの穴よりも3周りほど大きく、釣り竿も頑丈そうだ。釣り糸に至っては、紐に近い太さ。
そして、穴の周りにはところどころ、男性の爪と同じ色をした液が飛び散っていた。
明らかに、獲物はワカサギではなさそうだった。
男性は椅子のひとつに「んんああしょ」と呻きながら座ると、指で青年に隣の椅子に座るよう示した。
青年に逃げ出したい気持ちがないわけではなかった。少しは。しかし、ぬぱぷぅをひと目見たい、あわよくば食べたいという好奇心が勝ち、そこに座った。
座って場が静まると、男性の座る椅子の脇のバケツから声が聞こえた。
「むそめそとこゆこめこまてゆのめこゆやゆゆななとてゆのさゆなりけやねゆこね」
ただ、それは、音ではなく、声だった。
男性はバケツの中身を青年に見せると「ほれ、ぬぱぷぅ」と言った。「ぱ」と発音した拍子におじさんの大粒の唾が飛んだ。
ぬぱぷぅは、ワカサギ、よりもちょっとだけ人間寄りの魚だった。
エラの下、までは、ワカサギ。
エラにあたる部分からは、首が生え、喉仏らしきものが突出していた。
そして、首の先にぶら下がっていたのは、魚の眼を見開いた、小猿のような顔だった。
「むほゆねねねむたほねななつねたてやめねさはやなてえよのてすさおのひむねねままかひくぬな」
近づくとその声がバケツいっぱいに篭って、重なっていることに気付く。
美味しそうには見えなかった。
「食ってみるか?」
言葉を失った青年に、男性が投げかけた。男性は右手で、ぬぱぷぅを天ぷら衣にくぐらせている。
青年はそのまま、首をぶんぶん横に振った。
「もったいねぇなあ」
男性は寂しげに言葉を吐くと、熱した油にぬぱぷぅを滑り込ませた。
「あついッ」とぬぱぷぅが発した気がした。
「こいつらな、死ぬ間際だけ知能指数が上がるんだよ。いま、熱いっつったろ。刃、入れると、痛いって言うんだ。おもしれえだろ、人の出来損ないみてぇで。これがホントの、『死のう指数』なぁんつって! ガハハハハ!」
男性の唾を油が弾いて飛び跳ねる。
突然、男性の表情が無くなったと思うと、間髪入れずに竿に飛びかかった。
竿がしなっていた。
「どけ! チャンスだ!」
男性は全体重をかけ竿を引き上げている。顔が赤黒く、破裂しそうだ。
「アンちゃん、網、網! さっさとしろ!」
その怒声にも似た指示に逆らえず、青年は椅子の後ろに放られた網を取ると、釣り糸の先をすくった。
重かった。重いわけだ。
すくったのは、違う中年男性の青白い上半身だった。
噛み尽くされたのか、切断されたのかはわからないが、餌となった中年男性の断面に無数のぬぱぷぅが齧り付いている。釣り上がった水面は赤黒く霞んでいた。
首から下の、ワカサギである部分をビチビチさせている。
「大漁だな、おい! アンちゃんツイてるよ!」と青年の肩を叩いたあと、その餌の中年男性の頬を叩いて言った。
「六郎さんや、アンタもいい仕事するねぇ」
男性は柔和な笑顔で餌の中年男性を讃えた。
おそらくは、さっきまでは、3人いた。
椅子の数だけの男性がいた。
ぬぱぷぅの味に取り憑かれた男性たちは、誰かを餌にすることにした。
そして、知らない男性、続いてこの六郎さんが餌になった。
晴れて、ぬぱぷぅで大漁旗をあげることになった。
男性は急に頭を上げ、青年を銀と黒が混ざった魚の眼で真っ直ぐ見た。刺すほどに鋭い眼光だ。
口元はニヤついたまま言った。
「この辺じゃワカサギは釣れねえよ」
歯の隙間から瘴気が吹き出されているような感覚。青年は足が動かないのに、めまいがして頭はぐらついていた。
氷上に風が吹く。ヒョウヒョウ。汗が垂れる。
「んは」と息を漏らし男性は振り返る。
あたふたと、油鍋に駆け寄ると「まる焦げじゃあ」と嘆いた。
青年はその隙に、走った。
なるべく遠くへ、なるべく遠くへ、それだけ考えながら走った。滑って転んでも這いつくばってすぐに立ち上がり、走り続けた。
おじさんが背後から何か言っていたが、それもすぐに遠くなり消え失せた。
ズボンの裾に齧りついたぬぱぷぅに青年が気付いたのは、湖が見えなくなってからだった。
「むなへろけさゆふつねふゆへゆてのむけぬるけへゆおこゆみねけるなそむのゆねそもののれけこゆねゆねふこえいなふぬむる」
走ったせいか、
腹が減っていた。
終
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【罪状】住居侵入罪
青年が泊まった宿が、無断で空き家を改築し民宿を経営しているため。
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