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夏の終わりに恋を見た
穏やかに息を止めていく夏の中、静かに一際眩しく燃え盛る、地獄にも似た恋のようだと思った。
その男は自分のことを九条、と名乗った。私には彼の名前などどうでもよかったのだが、そんなことまで顔に出ていたのだろうか。私を見て鼻で笑った。不思議にも腹立たしくはなかった。彼は私のことなど気にも留めていないようで、どこか楽しそうな顔をしていた。八月三十一日の、日の沈んだ後のことである。
私は都内の大学に通う大学三年生だった。可もなく不可もなく普通の大学で、普通に文学を学んでいた。たいして面白くもない深夜ドラマの通りすがりの大学生が、私であった。
免許は取った。取れそうな資格も取った。夏目漱石だとか、芥川龍之介だとか、太宰治だとか、それらしい本もいくつか読んだ。が、何が面白いのかいまいち分からなかった。そういう人間だった。
そのころ私は、何かたりない、こんなはずではなかった、と漠然とした不快感のような、不安感を抱えていた。抱えるだけでなす術は一切なく、ただぼんやりと時間が過ぎるのを口を開けて待っているだけだった。
だから何かをしたかったのだろう。何かが欲しかった。たった一晩、私をぶっ壊すほどの何かが。
私が彼と出会ったその日は、八月三十一日だった。
私は夏休みの帰省で、逗子にある実家へ帰っていた。日中、何をしていたのか、あまり覚えていない。昼前に起きて適当なものを口に入れた。日が肌を刺して、茹だるような暑さだった。形だけの財布を持って、あてもなく外へ出た。私には金がなかった。
近所をぶらぶら歩いた後に、さすがに疲れて近くの古本屋に入ったのを覚えている。
特に読みたい本があるわけではなかったのだが、その本屋は奥に眠たげなおじいさんが一人で店番をしているだけで、程よく効いたぬるい冷房が気持ちよかった。私がやっとその本屋を出たのは、日も暮れて、おじいさんが店を閉める準備を始めたときだ。外はまだ少し蒸し暑かった。
ところで夏は八月三十一日で終わる。
九月になっても残暑は続いているだとか、蝉はまだ生きているだとか、学校が始まるのは二日からだからそれまでは実質夏休みとか、そういう夏の残骸に関係なく、夏は、確かに、八月三十一日で息絶える。何かが完全に、死に絶えてしまうのだ。
その姿がなんだかとても美しいと思っていた。美しいものは後ろを振り返らない。私は、夏が特別好きだった。
古本屋を出て家に帰る気も起こらずに、私は海の方へ向かった。そこから海へは歩いて五分ほどかかる。途中コンビニが一つあるだけで、そこから先は松林と、国道と、国道を越えたすぐ向こうに浜辺が広がっていた。
コンビニの手前で、私はその男と出会った。
その男はコンビニの横の暗がりで、こちらを、じっ、っと見ていた。
私を見ていたわけじゃあ、ないのだろう。私が彼の視界に入ってしまっただけで、彼は私など見てはいなかったのだろう。それでも一度は前を通り過ぎた私がもう一度彼の前に戻ったのは、彼が見るからに膝に痛そうな怪我をしているのとは別に、何か、私を惹きつけてやまない雰囲気を漂わせていたからだと思う。
私は、乾いた口で普通を装ってその男に話しかけた。
「大丈夫?」
最初、その男はこちらに焦点を合わせるだけで、何も言わなかった。長袖の黒いパーカーとジーンズを履いている。二十代前半の、勉強などしていなさそうな男だった。髪は黒く、端正な顔立ちである。
彼が口を開いたのは、私が声をかけてから数十秒した後であった。
「火、ある?」
「ない」
私は煙草を吸わないわけではなかったが、頻繁に吸う方でもなかった。
「嘘。いいよ、俺持ってるし」
男はそう言うと、ポケットからライターを取り出して見せた。百均で売っているものと同じデザインだ。
「でも煙草がないんだよね。奢ってくれる?」
私は咄嗟に、いいよ、と言ってコンビニの中へ入った。後先のことは考えていなかった。ただ、煙草を買えば彼ともっと話ができると思う一心で、私はレジに向かっていた。何の番号を口にしたかは覚えていないが、私の財布の中身はその煙草一箱でほとんど空になった。
急いで外へ出ると、男は先ほどと同じ位置のまま、私を待っていたようだ。そのときになってやっと、彼の膝の怪我のためにガーゼを買ってやればよかった、と思い出した。けれど生憎、私の財布はそれを許してくれそうになくて、私はなんとか彼がその話題に触れないように気を付けよう、と密かに思った。
彼に煙草を渡すと、彼は自分の名前を、九条、と言った。そんなことはそのときの私にとっては、既にどうでもいいものだった。
「よく俺に話しかけたね。こんな日にわざわざ。暇なの?」
九条は言った。
「こんな日って?」
「八月三十一日だろ、今日は」
「八月三十一日だったら、なんなの?」
「なんとも思わないのかよ」
「夏休みの最終日に、ってこと?」
「違う」
九条は、煙を吐き出すと残った煙草の本数を数えた。嗅いだことのないような、冷たくて穏やかな、それでいて懐かしい匂いだった。
「海、行く?」
こちらを見ずに短く言った九条に、行く、と間髪入れずに返せば、九条は少し驚いたような顔をして、しかし直ぐに澄ましたような顔に戻った。九条は私に背中を向けて歩き出す。私は追う必要もないその背中を追っていた。
「俺さあ、膝、怪我してるんだよね」
ゆっくりと歩き始めながら九条が呟くように言った。
痛そうだね、とか、大丈夫、とか、何か気の利いたことを言おうとしたけれど、どれも彼にとってはお門違いのような気がしてならなかった。
「このままじゃバイ菌が入っちゃうから海で洗いたいんだけど」
塩で染みるよ、とは言わないでおいた。愛すべき馬鹿とはこういう人間を指すのだろうと思う。
「あっ、さっきのコンビニで酒も買っておけばよかったな。なあ、酒も奢ってくれる?ビールでいいよ」
「金がないんだよね」
いくら持ってるの、と聞かれて、私は財布の中身を見た。百円玉が二枚と、一円玉が五枚、入っていた。
「それなら一本買えるって」
彼の足はもうコンビニの方へ向けられているようだ。
「一本買ったらこっちのもんだろ。紙コップ、貰えると思うか?そしたら水で薄めて二人分にできるな」
そう言う九条を見ながら、私はなぜか泣き出しそうになって、なんだかよく分からなくて、そうだね、と返した。
結局、缶ビールを一本と、プラスチックの透明な薄っぺらなコップを大事そうに持って海岸へ向かった。コップの中には注がれた水道水とビールが混ざり合って入っていた。
「ビール苦手なら俺が飲むよ」
と彼が言うので
「苦手じゃないわよ」
と返した。ビールよりも焼酎が好きだったが、彼にあげるつもりはなかった。ぐっ、とコップの中身を煽れば、薄くて苦い味と、炭酸の抜けた舌触りがした。それがなんだかくすぐったくて、私は嫌ではなかった。
私たちは松林を通り過ぎて、国道の上を歩道橋で越えて、海岸へつながる緩やかな、冷えたアスファルトと砂浜の混ざった坂を下りて行った。時折聞こえていた自動車の音がだんだん波の音にかき消されて、聞こえなくなった。鳥の声も、人の声もしない。ずっと長く広がっていく海岸には、私たちしかいなかった。
夏が終わるその夜、海に誰もいないなんてさすがに嘘だと思ったけれど、世界はどうしようもなく真実だ。
あたり一面が暗かった。頭上の月が、浜辺の私たちをスポットライトのように照らしていた。足元の砂が、そのきめ細かい粒の一つ一つを見せる。波の音は穏やかだ。風はまだ少し温かったが、それすら涼しい。肌に触れるシャツに湿り気はなかった。前髪が風にさらりと揺れている。
「静かだなあ」と、九条が言った。
蝉の声は、まるで最初から世界に組み込まれていた音のようだ。せわしない鳴き声が響くのに、私たちの周りはなんだかとても静かに思えた。夏の匂いがする。土と昼間の太陽と草木と熱気に焼かれた空気の残りと、嗅いだことのある匂いが。
「いてえ!」
九条がそう叫んで波打ち際で尻餅をついた。気が付けば、私の履いていたスニーカーには水が染みていた。
「めちゃくちゃ染みるわ」
そう言いながら九条の声はどこか、おかしそうに弾んでいた。
「でしょうね」
「こんなの無理だろ、どうやって傷口についた砂落とすんだよ」
「落としてあげようか?」
「どうやって?」
「私がお前の膝を固定してあげるから、その間に水で落としなよ。海水しかないけど」
「痛いつってんだろ」
苛立ったような声で九条は私に海水をかけた。シャツが濡れて黒い染みを作って、腹にじんわりと温くて冷たい温度が広がる。私は何故か、九条が本気で怒っていないことを知っていた。
「ア!煙草!」
叫んで九条はズボンの尻ポケットを探る。そこには先ほど私がほぼ全財産をはたいて買った、一本しか吸っていない、よく分からない銘柄の煙草が濡れてあった。
「濡れちゃったね」
「勿体ないな」
そう言って九条は濡れた煙草を一本咥えた。何回かライターで火をつけようとしたが失敗して、九条は煙草を咥えたままライターを私へ投げた。
「あげる」
「使わないの?」
ライターにはまだ、油がたっぷりと入っていた。
「別にいいよ。それにそのライター、百万円するんだぜ」
「嘘」
「嘘だと思うか?」
「嘘」
「本当」
百万、なんて貰っても欲しいものなど何もなかったが、彼が本当と言うのなら本当なんだろう。たとえ百万のライターでも百万で売る気はなくて、私はそれを同じようにズボンのポケットに仕舞った。別に一銭の価値もなくとも、それはそれでよかった。
湿った煙草を咥える九条に、お前はどこに住んでるの、と聞こうとして、やめた。
多分この男と今夜限り、もう会うことはないんだろうな、となんとなく思った。なんとなく思ったし、それでいい、とも思った。それでもいい。それでよかった。
「お前はさ、今日あそこで何をしてたの?」
「何って?」
「コンビニの横で」
「ああ」
代わりにそう聞けば、九条は思い出したようにこちらを見て、そして少し考えて、冗談でも言うように口を開いた。
「夏がどうやって終わるのかって、眺めてただけ」
穏やかな風が吹いて、彼からあの煙草の匂いが漂ってきていた。それは確かに、夏の匂いだった。
その時だった。私は、言いようのない嗚咽のようなものに襲われた。腹の底の、もっと奥からくる嗚咽だ。今までに私が経験したことのない熱量を孕んで、腹の底から湧き出てくる。喉を熱の針が刺すようだ。身体の奥に夏を丸ごと飲み込んでしまったようだ。頭は回らないくせに、意識だけははっきりとしていた。
それは私の知らない何かで、確実に私を変える何かだ。身を焦がすとは、こういうことなのだろう。
誰かに理解されようなんていう気はなかった。九条を見て、腹の底から湧き出た熱が、身体のいちばん中で爆発したようだ。それは、今までの私をたった一晩で全て消し飛ばすには、十分すぎる熱量だった。
とても苦しいのに、なんだか笑いだしてしまいそうだった。不意に、さっき飲んだビールの味が舌に残っていることに気が付いて、なんだか泣けてきてしまいそうだった。なにがなんだか分からなかった。分からなかったのだけど。
おそらくこれが、恋だと思った。
穏やかに息を止めていく夏の中、静かに一際眩しく燃え盛る、地獄にも似た、恋だと思った。