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アラフォー・ブサイクでも”キレイに生きたい”。
2022年、詳しくは言えないが、ぼくにとっては一大事件から幕を開けた。これは1か月遅れの”1年の抱負”だ。
@samummjとは?
このアカウント(@samummj)は2018年7月31日に開設された。
”アラフォー・ブサイクのShingo Leeが”キレイになる”という目標を掲げて,2年余り突っ走ってきた(つもり)なのが2020年までのこのカウントだ。
2021年は特に新しい活動は減っていき、自分の今までのインプットをもとに様々な形でアウトプットしていった。
服もより個人的趣味が強いものを買うことが多くなったし、家ではアル中になり、ゲーム【apex】ばかりしていた。
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ある意味、2021年は”キレイになる”という目標も特に達成されず、自分としてはただただ、コロナに耐えて終わった1年だった。
年を取るごとに1年が早くなり、2021年もあっという間に1/12が終わってしまった。きっと、このままではあっという間に2022年も終わる。
1か月遅れではあるが、2022年は”キレイに生きる”という目標を建てた。
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今の時代だからこそ、”キレイに生きる”
今の時代をどう切り取るか、なんて人それぞれの切り取り方があるので簡単に何が正しいかなんて言えないが、これは自分なりの時代の考え方だ。
結論:日本の潔癖化と”キレイに生きる”
結論だけ先に言うが、僕は日本はより”潔癖”になっていくと思われる。
最近の若い子(20代前後)は全体的な印象で言うと「無欲だ」と思う。年収は300万くらいあれば生きていけるし、不要な競争はしたくないし、おもしろいものは無料のYouTubeやTikTokにあるし、ちょっとお金を詰めばサブスクで大量に見放題だ。変な夢を見ず、小さな幸せを噛みしめているような慎ましいように見える。
僕のようなアラフォーは地方にいるころからテレビを見て、「東京に出て、かっこいい暮らし」をするのに憧れていた。消費社会の寵児だ。高い給料が欲しいし、かっこいい服が欲しいし、たくさんの女と遊びたかったし、おいしい酒が飲みたかった。
僕はこんな時代だからこそ、若い子のようにキレイに生きたいと思うのだ。今の時代は慎ましく生きる者にやさしくなっている。
かつて見た、月9の木村拓哉が主人公のドラマみたいに広い家に住み、しゃれたコーヒーやお酒を飲まなくても、みんなSNSを通じて「小さな主人公」になれるのである。
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もう一つの理由:SNS(オンライン)と現実(オフライン)が薄くなる
もう一つはSNSと自分の付き合い方を見つめなおしたからだ。
SNSの中の「わたし」は、オフラインの「わたし」とは異なる。全くをもってイコールではない。
SNSの「わたし」は、現実の「わたし」と肉体は共有しているが、実際は異なっている。
それはテレビゲームに似ている。
体は1つでもあるときは「魔王から世界を救うわたし」でありながら、もう片方では「敵国の兵士を銃や刀で皆殺しにするわたし」であること同じ状況だ。
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しかし、テレビゲームと違うのは「2人の異なるわたし」は「1つのフィールド」にしか生きられないのである。
ゲームのたとえをすると、現実では、敵国の兵士を殺戮したところ見られたら、指をさされて「勇者様、何をしているですか!」と後ろ指をさされるのである。
だから、僕は2つのゲームをプレーしていても、「魔王を倒すわたし」と「敵国を皆殺しにするわたし」も両方とも互換性をもたせなくてはいけないのである。
つまり、僕は僕自身に一貫性が必要になってきた。
結局、”キレイに生きる”とは。
ちゃんと生きる
まずは、改めて自分のインプットや経験を人のために生かしたい。
それは人生相談かもしれないし、恋愛相談かもしれないし、ファッションの相談かもしれない。
人間は社会的動物であるから、社会の中で役に立って生きていきたい。これは完全に個人の考えでしかないが、役に立つことこそが人間として”ちゃんと生きる”ということだと思う。
キレイ言で生きてみる
もう一つはキレイ事で生きてみる、ということだ。自身はないが、頑張っていきたい。
この世には「汚いけど、真実味のある言葉」というのがありふれている。それは、一時的には人の気休めになるかもしれないが、本当の意味では役に立っていない。
汚い言葉に真実があると感じるのは、平成までの価値観だと思う。
昨今では「データ」や「科学的に正しい」がもてはやされているが、「科学やデータ」は事実であって、それに妥当性を見出しているのは「主観」だし、「視点」が違えば、事実の見え方は変わってくる。
つまり、自分は「キレイ」に見える視点・切り口でものごとを切り取り、響く言葉を出していきたい。
兼ねてより、私はたびたびけんか腰で引用RTしたり、リプを飛ばしてきた人間だ。
この目標とは逆にいるような人間だが、自分なりに頑張ってみたい。
2022年はそういうチャレンジをする年にしたい。