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バレリーナのふり
深夜のガレージ。修理途中のYAMAHA XJR1300Cの部品がテーブルに散らばり、オイルの匂いが空気を重くしていた。ニシアキヒサは椅子に深く座り込んで、右手で薄いサングラスを外しながら左手で煙草をもみ消した。彼の目は、明らかに疲れ果てているのに、どこか眠ることを拒むようにぎらぎらと光っている。
「眠れないの?」
スズナユリはそっと彼の隣に座り、頬杖をつきながら尋ねた。
「まあな」
短く吐き捨てるような返事。だが、その声には隠しきれない疲労が滲んでいた。
「不眠症なの?」
「そんな大層なもんじゃねぇよ。ただ、考えごとが多くて目が冴えるだけさ」
ニシはテーブルに置かれたグラスを手に取り、残り少ないウイスキーを一口で飲み干した。
「それなら、眠れるようにしてあげる」
「ユリが?」
ニシは眉を上げ、半分冗談めいた目でユリを見た。
「そう、私が」
ユリは立ち上がり、ガレージの片隅で埃をかぶっていたスピーカーのスイッチを入れる。古いバレエ音楽が静かに流れ始めた。
「なんだそれ」
「私、今からバレリーナになるから」
「バレリーナ……」
ニシは言葉を繰り返しながら、再び煙草に火をつけた。視線がユリの足元から顔までゆっくりと移動する。
ユリは腕を軽く広げ、足をつま先立ちにして回転する。ぎこちない動きだが、彼女自身は気に留めない。
「眠れないんでしょう? だったら、これくらいの演出が必要なんじゃない?」
「演出って、お前なぁ」
ニシは鼻で笑いながら煙を吐き出したが、その目は音楽に合わせて揺れるユリの動きをじっと追っていた。
「ほら、眠れる森の美女はバレエの虜だったじゃない」
「そんな話だったか? あれ」
「風の噂で聴いた話よ」
ニシは肩をすくめて「なんでもありだな」とつぶやいた。
音楽が一段と静かになるタイミングで、ユリはニシの前に立ち止まり、両手を彼の肩にそっと置いた。
「どう、少し眠くなってきた?」
「いや、むしろ目が冴える」
「じゃあ、次の手だ」
ユリはそのままニシの顔に近づき、軽く唇を重ねた。ほんの一瞬の甘い時間。煙草の味と、わずかに残ったウイスキーの香りが混ざっている。
ニシは驚いた顔でユリを見たが、すぐに表情を緩めた。
「バレリーナってのは、こういうもんなのか」
「そう。これは特別な治療法だから」
「お前が言うと、なんでも本当になりそうだな」
ニシは笑いながら、ようやく椅子の背にもたれかかった。その目が少しだけ柔らかくなったのを見て、ユリは満足そうに音楽を止めた。
「おやすみ、アキ」
「おやすみ、バレリーナ」
その夜、ニシが少しでも眠れたのだとしたら、ユリの治療法は成功だったといえる。
──眠りの果てで、ニシは夢を見た。ト音記号の上を渡る踊りの夢だ。バレリーナ役はユリではなく、めまいで踊れないと嘆いていたあのダンサーだったが。
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