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HOMRA in Las Vegas 6.5

第6.5話「伏見のグルメ in Las Vegas」
著:鈴木鈴

 異能兵器の襲撃を受け、『ピラミッドホテル』にたどり着いてから、二十四時間が経過していた。
 どこからともなく湧き出た《非時院》エージェントたちを率いて、タナカがまず手をつけたのは、『要塞』の建造だった。『ピラミッドホテル』は『敵』に見つかっていないが、それも時間の問題だ。早晩、なんらかのアクションを起こしてくるだろう。それまでに、警戒・監視・防衛態勢を敷いておく――というのが、タナカが描いたプランだ。
 もちろん、伏見猿比古の労働も、そのプランに含まれていた。

 ベッドから起き上がり、伏見は大きく伸びをした。
 時計を見る。二時間ほどは眠れたらしい。ダチョウに追われる夢を見たような気もするが、よく覚えていない。ふらふらとバスルームへ向かう。顔を洗い、歯を磨き、水を一杯飲んだところで――
 空腹を覚えた。
 部屋に戻り、冷蔵庫を開けて、伏見は顔をしかめた。
 サンドイッチが入っている――食べかけの。ホテルの売店で買い求め、一口食べて、あまりのマズさにそれっきりになったものだ。パサパサのパンでシナシナのレタスとペラペラのハムを挟んだ、食べ物とも呼べないような代物。ラスベガスに来てよかったことがひとつだけあるとしたら、日本のコンビニ飯がいかに美味であるかを知らしめてくれたことだ。
 伏見は冷蔵庫を閉めた。
 空腹感は収まらない。曲がりなりにも食べ物を見ただけ、さらに増幅している。どうするか。売店のレベルからして、レストランにもあまり期待できない。こんなことなら、日本からインスタントヌードルでも持ってくるのだった。
 そのとき、部屋のドアがノックされた。
 伏見は用心深く身を寄せ、ドアスコープを覗く。
 タナカだった。
「おはようございます、伏見さん」
 ドアを開けると、タナカは慇懃に挨拶をした。いつも通りの七三分けにスーツという、ジャパニーズ・サラリーマン・オールドスタイル。彼のにこやかな笑みが崩れたところを、伏見はまだ見たことがない。軍に襲撃されても絶やさないのだから大したものだ。
「おかげさまで、防衛ラインの第一段階が構築できました。現在は第二段階の初期作業をプランニングしているところです。引き続き、ご協力のほど、お願いいたします」
 伏見はぞんざいにうなずき――直後、腹が鳴った。
 タナカは軽く首をかしげ、
「おや、まだご朝食は召し上がっていらっしゃいませんか?」
「……売店の食い物がマズすぎて、食う気になれないんすよ」
 ぼそりと答えた伏見に、タナカは笑みを浮かべた。いや、今までも笑っていたのだが――この笑みは、どうも、本心のようだ。
「ちょうどよかった。私も今から食事なのですが、よろしければご一緒しませんか? 少し離れているので、車での移動になりますが」
「車……? 作業はいいんですか?」
「部下たちに方向性は示してありますので、食事をする時間くらいはありますよ。いかがですか?」
 伏見は考える。
 誰かとメシを食う、という行為は別に好きではない。が、ともかく腹は減っていたし、右も左もわからないラスベガスで今から店を探すのも面倒だった。タナカがよい店を知っているというのなら、それに従うのもいいのかもしれない。
「じゃあ、行きます」
 そう答えてしまったことを、伏見はこの日一日、後悔することになる。

        †

『ハートアタックグリル』というのが、その店の名前だった。
 ハートアタック心筋梗塞
 この時点でイヤな予感はしていた。ラスベガスでもかなりの有名店で、昔から行くのが夢だった、とうれしそうに(おそらくは本心から)喋るタナカの傍らで、伏見はそっと店について調べてみた。
 レビューによれば☆4.2。ハッシュタグに『入院』『血圧』『冠動脈バイパス手術』という言葉が並んでいる。飯屋のレビューについていいタグではない。
 今から帰れねえかな。
 行きの車内で、すでに伏見はそう思っていた。が、そのあいだに、タナカは駐車し、チケットを取り、「ここは《非時院》で持たせていただきます」と片目をつぶって見せた。今までにないフランクな態度に、つい言いそびれてしまったのだ。
 ハートアタックグリルの前には、救急車のレプリカが駐まっていた。ガラス越しに見える店内では、ナース服のウェイトレスが行き来している。どうやらこの店は病院をモチーフにしているらしい。
 入り口の脇に体重計があり、伏見の三倍ほどの体積がありそうな白人男性がそれに乗って落胆していた。今さら落ち込むような体重でもないだろう、と伏見は思ったが、タナカ曰くあの男性は『軽いから』落ち込んでいたらしい。体重が350ポンド約160kg以上の客は一品タダになるということだ。
 この頃には、伏見もこのバーガーショップのコンセプトを理解しはじめていた。大食いやドカ食いと呼ばれる、常軌を逸した量のメシを胃袋に詰め込むことを目的とした店だ。
「私たちも計ってみますか?」
「いや意味ないでしょ」
 楽しげなタナカとは対照的に、伏見の目的は「一刻も早くホテルに帰る」に切り替わっていた。ここを楽しむことは、俺には絶対にできない。そんな確信が伏見の中にある。
 二人は店に足を踏み入れた。
 受付ではナース服の店員が、気だるげに自らのブロンドをいじっていた。ざっくりと開いた胸元を見て、伏見はふと上司のことを思い浮かべる。
 濃いシャドウを引いた目が、ちらりと二人のことを見た。
 タナカはにこやかな笑顔のまま、なめらかな英語で話しかける。
『予約したタナカです』
 受付嬢は値踏みをするような目つきで伏見とタナカのことを眺め回した。日本人の中でも細身の二人を見て、彼女は半笑いを浮かべる。
『大丈夫? この店のルール、わかってる?』
『ええ、もちろん』
 受付嬢は大げさなそぶりで肩をすくめ、『オーケイ、オーケイ』と馬鹿にするようにつぶやいてから、
『二名様、ご案内』
 パンパン! と、その手を叩いた。
 店の奥から、さらに二人のナースが現れた。なぜか車椅子を押してきている。さすがにぎょっとしてタナカを見ると、タナカは笑いながら説明してくれた。
「あれもこの店のルールですよ。入店した客は、車椅子で席まで運ばれるんです」
 伏見はタナカのことをじっと見つめた。
 が、タナカは「?」という笑顔のまま、首をかしげただけだ。ダメだこいつは。伏見は受付嬢に向き直り、宣言する。
『いらねえよ。足は動く』
 赤いリップを塗った唇をすぼめ、受付嬢は憐れむような声をあげる。
『オー……ワガママなボウヤね。ダメよ、患者さんは指示に従ってもらわないと。もし頭を打ってたりしたら取り返しがつかないもの』
『脳みその検査が必要なのはおまえらのほうだろうが……!』
 軋るような声で言っても、受付嬢は笑って取り合わなかった。伏見のみぞおちを人差し指で突きつつ、
『別にいいのよ、今から店を出て行っても? あなたの胃袋じゃうちのバーガーは入らないでしょうし。あ、子ども用のメニューなら食べきれるかもしれないわね?』
 もう少しで暗器を抜くところだった。
 が、すんでのところで、伏見はそれを堪えた。暴力に訴えたら負けだ。そして、こいつらに負けることだけは、絶対にイヤだった。
 十字架を背負うキリストのごとき覚悟と共に、伏見は車椅子に座った。タナカもそれにならう。
 と、ナースたちが、二人の身体にふわりとエプロンを掛けてきた。患者用の手術衣を模している。
『それじゃ、楽しんで!』
 受付嬢の合図と共に、車椅子が進み出した。市中引き回しの後、獄門を受ける罪人はこんな気分なんだろうな、と伏見は思う。
 店内は狂気の世界だった。
 手術衣を着た客がうろつき回っている。どいつもこいつも、鎌本が小さく見えるような図体の持ち主だ。点滴を受けている客がいてぎくっとしたが、どうも点滴袋に飲み物が入っているらしい。注射器を模したシリンジから、スムージーのような飲み物を直飲みしている奴もいる。手術衣ではなく拘束着のほうが似合っているのではないか。
 しかし、今や伏見も、その病棟の患者のひとりだ。
 二人は席に着き、向かい合わせに座った。タナカはメニューを楽しげに眺めている。伏見はじっとりとしたまなざしでそれを見つめながら、ぽつりと、
「こういうとこ、好きなんですか?」
「ええ、とても」
 七三分けに上下スーツ、貼りついたような笑顔――それが、伏見の知る『タナカ・ヒトシ』の姿だった。なにも知らないに等しい。タナカのすべては偽りであり、《非時院》のエージェントという記号イコンでしかないからだ。
 だが――今のタナカは違う。彼は今、本心から楽しんでいるようだった。
「意外に思われているかもしれませんね。ですが、私はこういうお店が、本当に好きなんですよ」
 メガネの奥の目が、どこか遠くを見るように細められる。
「ご存じのとおり、私たちの『組織』は大きな責任を伴っています。国家の運営、民衆の安全、異能の秘匿。ひとつでも舵取りを間違えれば、秩序はたちまちのうちに失われる。御前はもちろん、私たち『ウサギ』にも、その責務は重くのしかかっているのです。それは――すさまじいストレスとなります」
 タナカは冒涜的なハンバーガーの数々が載ったメニューを愛おしげに撫でる。
「そして、これが私の解消方なのです。ニンニクアブラマシマシラーメン、五重トンカツタワー丼、スーパーファットバターシェイク――そう言ったものを食べているときだけ、日頃の重責をふっと忘れられるんですよ」
 伏見は真顔で言う。
「死にますよ、そのうち」
「人はいつしか死ぬものです。大事なのは、どう生きるかではないでしょうか?」
 悟ったように言うタナカに、伏見は怪物を見るまなざしを向ける。《非時院》、日本最大にして最強のクランの闇が垣間見えた瞬間であった。まあ、『ウサギ』のような格好をクランズマンにさせている時点で、まともなクランとは言いがたいか。
「伏見さんはどれになさいますか?」
 タナカは手元でメニューを反転させ、伏見のほうに差し出してきた。カロリーの核弾頭が満載されたメニューの数々を、伏見は淀んだ目で見下ろす。
「……これを」
 やがて彼が指さしたのは、ダブルバイパスバーガー(この店はすべてのバーガーにバイパスという言葉がつく)――下から二番目の大きさのハンバーガーだ。下から二番目とはいえ、日本のハンバーガーの数倍は大きい。一番小さいものにしなかったのは、あの受付嬢の嘲笑を思い返したからだった。
「そうですか。では」
 タナカは軽く手を上げて、ウェイトレスを呼んだ。最初に伏見の注文をして、それから彼は、己の注文を口にした。
「私は、こちらのオクタプルバイバスバーガーを、フラットライナーセットで」
 ウェイトレスの手から、注文票が滑り落ちた。
『――ごめんなさい、聞き間違いかしら? 今なんて?』
 タナカは先ほどよりも少し大きな声で、注文を繰り返した。
 ウェイトレスは目を見開いたまま小さくうなずき、注文票にその文字を書き付けた。それから、店の中央の柱につかつかと歩み寄り、そこに掛けられていたハンドベルを手にして、思うさま打ち鳴らした。
『ワン・オクタプル、インカミンッ!!!』
 その音に、店内が一瞬静まりかえり――次の瞬間には、猛然と沸き立っていた。
『オイオイオイ、マジかよ!? どこのクレイジーだ!?』
『あのアジア人か!? 馬鹿げてる、食えるわけねえだろ!』
『HAHAHA、ジョークがキツイぜ。オシオキ目当てで頼んだんじゃねえだろうなァ?』
 驚愕、感嘆、嘲罵――彼らの興奮には、そういった色が滲んでいた。不可能に挑む者を見るとき、人はそのようなリアクションをする。
 伏見はそっと、メニューに視線を走らせた。
 オクタプルバイパスバーガーは、ハンバーガーというよりは、肉とチーズによって建てられた積層都市のように見えた。
オクタプル八倍。ダブルの四倍。
 総カロリーは20000を超える。
 伏見はタナカを見た。
「アンタ、正気か?」
 タナカは微笑みながら、両手の指を組み合わせた。
「楽しみですね」
 その声に虚勢はない。今にも鼻歌をくちずさみそうなくらい、タナカは上機嫌だった。これからやってくる「とてもおいしい料理」が待ちきれない――そんな表情だ。
 一方で、伏見とタナカは店内の注目の的になっていた。どちらかといえば悪い意味だ。誰がどう見ても、タナカはオクタプルバイパスバーガーを食べきれるような風貌をしていない。愚かなアジア人が肉を喉に詰まらせて窒息するところを見届けてやる、というような悪意が、彼らの視線には含まれている。
 気まずい時間は、そう長くは続かなかった。
 二人の注文が運ばれてきたのだ。
 ウェイトレスが『それ』を運んでくる様は、なにかのコントのようだった。ミルフィーユのように積み重なった肉とチーズが、ゆらゆらと揺れながら近づいてくる。タナカの眼前に置かれると、彼の姿はすっぽり隠れて見えなくなってしまった。
「………………」
 伏見は自分のダブルバイパスバーガーを見つめる。これだけで三日間は食いつなげそうな偉容だが、タナカのブツに比べれば巨人とこびとに等しい。
「伏見さん、こちらをどうぞ」
 そう言ってタナカが差し出してきたのは、ラテックスの手袋だった。彼はすでに嵌めている。伏見もそのようにする。いちいち手を拭っていたのでは、ひと箱分のナプキンがいるだろう。
「それでは、いただきます」
 ラテックス手袋に包まれた両手を合わせ、奥ゆかしく宣言して。
 タナカは、食べはじめた。
 まず、てっぺんに乗っかっている申し訳程度のバンズを取り外す。それから、一番上のパティを掴む。口を開き、かじる。何度も繰り返すうちにパティがなくなる。次のパティを掴み、口を開き、かじる――
 決して食べるのが早いわけではない。むしろ、タナカは一枚一枚のパティをじっくりと味わっている。手のひらほどのもある肉の葉を、愛おしげに両手に取り、かぶりつく。そのたびに、天上の美味を口にしたように顔をほころばせる。
 そうこうするうちに、オクタプル八倍セクスタプル六倍になっていた。
 タナカの顔色は変わらない。食べるスピードも、やることも。掴む、開く、かじる。書類仕事をこなすサラリーマンのように、淡々とそのルーチンを繰り返している。
 観客の顔に浮かんでいた、にやにやとした嘲り笑いが、次第に薄れはじめた。
 伏見もまた、タナカの真似をしてバンズを外し、パティを掴んで頬張った。
 目を見開く。
 うまい。どうせパサパサに焼き固められているのだろうと考えていたのだが、予想に反して、パティを口に含むたびにジューシーな肉汁があふれ出してくる。チーズはややクセがあるものの、そのクセに熱々の脂がからむことで極上の風味へと昇華している。
 ここに至って、伏見はようやく自分が空腹であったことを思い出した。
 夢中になって食べる。パティ。チーズ。脂がしつこくなってきたらバンズを口に放り、味変でケチャップを追加。ピクルスやレタスといった植物性の食べ物は、この店には一切置いていないらしい。タナカが箸休め(というレベルではないが)に食べているフライドポテトも、すべてラードで揚げられているらしい。だからフラットライナー心停止。頭がおかしい。
 そのタナカのバーガーは、すでにクアドラプル四倍になっていた。
 タナカの速度は変わらない。淡々と、粛々と、掴んで開いてかじっている。
 客がどよめきはじめた。悪意あるあざけり笑いが、驚愕まじりの感嘆へ、じわじわと変わっていく。
 伏見もまた、タナカのことを見直しはじめていた。大食いにはなんの価値も見いだせないが――それにしても彼は、うまそうに食べる。それに、この店は頭がおかしいものの、間違いなく『当たり』であった。これほどの美味に出会ったのは、米国に来てからはじめてのことだった。
 ダブル、そして、シングルに。
 パティが最後の一枚になると、タナカは残していたバンズでそれを挟んだ。そのまま、普通のハンバーガー(よりもだいぶ巨大だが)のように、パクパクと食べはじめる。その速度に一切の陰りはない。伏見が、客が、ウェイトレスたちが見守る中で、タナカは最後のひとかけらまで、まったくペースを落とすことなく食べ終えた。
 ナプキンで口元を拭い、汚れた手袋を外して、タナカは再び両手を合わせ、
「――ごちそうさまでした」
 そうして、食べ終えた。
 店内が、わっと沸き上がった。
『オイオイオイ! マジかよあのジャパニーズ!? ホントに食べやがった!!』
『ニンジャか!? なあ、おい、あいつがニンジャなのか!?』
『バカヤロウッ! アイツはな――サムライだよ! ジャパンから来た、ラストサムライだッ!!』
 やんやの大喝采を受けても、タナカは涼しげに微笑んだまま、軽く会釈をしただけだった。その奥ゆかしい仕草に客たちはさらに熱狂し、ウェイトレスは頬を染めて「ゼンね……」とつぶやいている。
 伏見は居心地が悪い。
 タナカのことは尊敬するものの、それはそれとして腹が膨れつつあった。伏見のダブルバイパスバーガーは、まだシングルにもなっていない。うまいことに変わりはないのだが、脂が多いぶん飽きも早かった。ごくりと飲み込んで、小さく息をついたところで、タナカが気遣わしげに声をかける。
「大丈夫ですか、伏見さん?」
「……ええ、まあ」
 低く漏らしたうめきは、強がりにしか聞こえなかった。自分でもそう思った。義務的にパティをかじるが、明らかにスピードが落ちている。
 まあ、食べきれずとも、このまま残せば良い。タナカの大食いは感嘆すべきことだが、自分が付き合う理由はない。鎌本ではあるまいし、胃袋が破裂するまで食べるほど、伏見は食に対して感心が深いわけではなかった。
 そんな甘っちょろい考えを吹き飛ばしたのは――例の受付嬢だった。
『ハァイ、ジャパニーズ・ボーイ。調子はどうかしら?』
 いつの間にか、彼女がテーブルのそばに立っていた。ブロンドをいじりながら、馬鹿にするような目で伏見のことを見下ろしている。
『こちらのミスター・メガネは、本物のタフガイだったみたいね。でも、あなたは苦戦してるみたい』
『うるせえな。メシ食ってる途中に声かけんじゃねえ』
『アーハ、気の強いボウヤですこと。でも、あなた、食べきれなかったらどうなるか、わかってる?』
 なに?
 伏見は訝しげなまなざしを向ける。受付嬢の赤い唇に、サディスティックな笑みが浮かんだ。彼女が親指で示した先には、大きな柱があった。先ほど打ち鳴らされたハンドベルがかけられている。
 その隣に、鞭がいくつも並んでいることに、伏見は気づいた。
『どうやら知らなかったみたいね? この店ではね、お残ししちゃうようなイケナイ子には、オシオキをすることになってるの。――あら、噂をすれば』
 伏見たちとは離れた場所に座っていた白人男性が、ウェイトレスに促されて立ち上がった。なぜかやに下がっている。彼はそのまま、柱の手すりを両手で掴み、軽く足を開いた。ウェイトレスは柱から鞭を取る。
 ウェイトレスはそれ振り上げ――白人男性の尻に、思いっきり振り下ろした。
『ごはんを残すなんて、悪い子ね! 反省しなさい! 反省!』
 二度、三度。鞭が尻を打ち据えるたびに、白人男性はうれしそうに身をよじり、声をあげる。周りの客はそれを見てゲラゲラ笑っている。
 伏見は氷のごとき無表情だ。
 なんだこれは。
 タナカが申し訳なさげに説明する。
「ええと、この店の決まりなんですよ。彼女の言うとおり、この店でハンバーガーを残してしまうと、ああやってお尻を叩かれるオシオキをされてしまうんです」
「おまっ――聞いてねえぞそんなこと!?」
 伏見は敬語も忘れ、食ってかかった。タナカは申し訳なさそうに頬を掻き、
「すみません、言っていませんでしたね。オシオキを受けることなんてないと思っていたので――」
 そりゃそうだろう、おまえはな・・・・・。伏見は歯を食いしばり、かろうじてその愚痴を飲み込んだ。今さらタナカに文句を言ったところで始まらない。すでにして、伏見は死地にいるのだった。
 受付嬢がからかうように言う。
『安心なさいな、時間制限があるわけじゃないわ。けど、私の経験上、時間が経つほどにつらくなっていくわよ』
 伏見は自分のバーガーを見下ろした。
 まだ半分以上残っている。タナカの食いっぷりに惑わされていたが、伏見のダブルバイパスバーガーも日本であれば大食いに類する代物なのだ。半分でも、十分にきつい。
 受付嬢が伏見の耳元に口を寄せ、ささやいた。
『ギブアップは早めにね? 私が手ずからしつけてあげる。アナタみたいな跳ねっ返りのボウヤをいたぶるのが趣味なの』
 その声が、伏見の闘志に火をつけた。
 ラテックスに包まれた手を伸ばし、パティをちぎり、口に放り込んだ。ろくに噛まずに飲み込む。食道が悲鳴をあげるが、関係ない。この女の言うとおり、これは時間との勝負だ。満腹中枢が信号を発する前に、決着をつける必要がある。
『…………!』
 受付嬢が、警戒するように眉根を寄せた。
 伏見のペースは、どんどん速くなっていく。ちぎり、放り込み、飲み込む。あっという間にパティを一枚平らげた。胃袋が張り詰める、みしみしという音が聞こえたような気がしたが、気のせいだ。メガネのつるを汗で濡らしながら、伏見は食事を続ける。
「伏見さん、無茶はしないほうが……」
 うるさい黙れ。今こっちは必死なんだよ。
 伏見は目線でそう怒鳴りつけた。今は食事以外の用途に口を使いたくなかった。
 もはや、ほとんど噛まずにバーガーを呑み込みはじめている。
 そのうちに、意識が朦朧としはじめた。なぜ自分がここにいるのか、よくわからなくなってきた。日本を離れラスベガスくんだりまで、ハンバーガーで窒息するたために来たわけではない。
 さまざまな記憶が、ぐるぐると脳裏に巡りはじめる。タナカ。御槌。《吠舞羅》。デスバレー。美咲。ダチョウ――。
 高速回転する記憶は、やがて火花を散らしはじめた。その火花は、ひとつの炎となって燃え上がる。
 それは、怒りと呼ばれる炎だ。
 なんで俺が、こんな目に。
 あいつが《非時院》から逃げ出さなければ。
 こいつがあんな話をうちに持ち込まなければ。
 あの馬鹿どもが意地を張らずに帰っていれば。
 青い制服、メガネの向こう、涼やかに微笑む目が、なんでもないことのように言った。
「それでは伏見くん、業務命令です。世界を救いに行ってください」
 く、そ、が!!
 精神は、ときとして肉体を凌駕する。怒りの炎は、破裂しかけていた伏見の胃袋を覆い尽くし、バーガーを焼き尽くした。すでに感覚はない。ちぎる放る呑み込む、それを繰り返すだけの機械に、伏見は成り果てていた。
 ガランッ――。
 やがて、そんな音が耳を打った。
 かすむ視界の中で、バーガーを載せていた皿が、がらがらと揺れていた。伸ばした指先に、触れる食べ物はなにもない。バンズも、パティも、チーズも。なにひとつ残っていない。
 終わった。
 かすむ意識の中で、伏見はぼんやりとそう考える。全身がハンバーガーになった気分だ。
 そのとき――かすかな音が、伏見の耳を打った。
 ぱち、ぱち、ぱち。
 ゆらりと視線を動かすと、例の受付嬢と――そして向かいのタナカが、揃って拍手をしていた。
 受付嬢は爽やかに笑う。
『あなたの勝ちよ、ジャパニーズ――いいえ、カミカゼ・ボーイ。見せてもらったわ、ヤマトソウル』
 タナカもにこやかに笑う。
「おつかれさまです、伏見さん。あ、デザートはどうしますか?」
 口を開くことはできなかった。そんなことをしたら――よくないことが起きる。
 なので。
 伏見はケチャップと脂とチーズにまみれたラテックス手袋を脱ぎ、丁寧に一枚ずつ、受付嬢とタナカの顔面に投げつけた。

 


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