柏木椎名は天才作詞家なのかもしれない、という説3
たった23文字にケモナーの精神がぶっ壊された話。+αです
はじめに。
今回の記事は前回までの歌詞解説とは少し違って私の内面的な話が多かったりすることを謝っておきます。わりと最後まで、本当に文章化すべきか迷っていた。それだけ私への影響が強かったり、それ含めてとても大好きな曲となった、大切な曲です。
というわけで今回は柏木椎名の初主演舞台である舞台「猫にマタタビ アキバにオタク」の劇中歌として作られ、11月10日に劇中では歌われなかった2番を含めリリースされた「さよなら、かみさま」について書いていきます。
この曲は柏木椎名と、同じくW主演という形でこの舞台の主演を務めた三浜ありさの二人により歌われ、劇中では家出少女(=捨て猫)である二人の演じたキャラクターの過去を思い起こされる演出とともに歌われました。
テーマに沿った作詞、というのは柏木椎名にとってはおそらく初めてで、それが初主演の舞台の劇中歌であったり、そもそも作詞したものがこうやって出るのが2年近くぶりで、観劇後に舞台のパンフレットに「作詞:柏木しいな」というクレジットを見つけた時の喜びと興奮は未だに鮮明に覚えています。そして歌詞を見て衝撃を受け、夜公演ではその曲中ずっと泣いていた。
舞台の千秋楽の日にこんなツイートをしましたが、婉曲も誇張もなく、本当にこんな感じだった。
長いこと心を抉られて、本当に天才だ、と思う一方でだからこそ具体的な言及をするのがとても難しかった。今までの記事で柏木しいなのテーマの一貫性、みたいなモノを主軸の一つとして書いてきたが、今回はその主張とは大きく異なるものになってしまう、そう「思っていた」。わざわざそう書くと言うことは実はそうではない、というオチを暗示しているわけですが、少なくともつい最近まで、それこそCDという形でリリースされてそれを聴き込むまでは、明るい気持ちで聴ける曲ではなかった。いや今も不意に泣いてしまう曲ではある。
さて、ケモナー情緒ブレイカー。いかに私の情緒をぶっ壊したか、というお話。歌詞全体を通して、捨て猫が、(元)飼い主を思いながら、それを断ち切り強く生きていこうという切なさと決意に包まれている歌であるが、一番まずい(褒めてる)のはラスサビ前のCメロ、メロディが大きく変化する中で歌われる「醒まして君の夢ぼくにかけた魔法も 全部認めたいから やわらかい温度が呪いのように 僕を包んで離さない」という部分。特にこの後半部分。
やわらかい温度が呪いのように僕を包んで離さない
たった23文字。歌にして7秒ほど。その部分だけで、私の感情を深く抉るには充分だった。初めて聞いて、パンフレットで歌詞に気づいてしまってから、音源などなくてもその歌詞をうわ言のように口走り、涙を流していた。
やわらかい、温度、包む、という表現と似合わない、呪い、という言葉。この「呪いのような」モノの正体は言わずもがな、愛である。失われてしまった愛情。捨て猫という身において、捨てられてなお、そのぬくもりが、暖かな日々が、彼女の脳裏に存在し続けること。
「つけてくれた名前すら痛くなっても」「不確かな君でなぞった生活に名前もなくて 塗りつぶせたらいいのに」と苦しむ一方で、暖かい記憶がずっとあり続けること、そして、この歌詞たちに一度も、飼い主を恨むような言葉が無いことが、より切なさを際立たせていると思った。
この歌詞の部分は劇中でミコを演じる三浜ありささんが歌っているのですが、柏木椎名演じるみいこが、すれ違いからショックを受け自ら家出する事を決めたのに対し、ミコは飼い主さんの病気により急に山に捨てられる、と自分の意思に関係なく捨て猫になった経緯があります。見知らぬ場所に捨てられ、暗い山道を恐怖と共に走る中、それでも脳裏に浮かぶのは暖かな日々の記憶だと考えると、いたたまれなくなってくる。実際ミコは捨てられた後、飼い主さんの孫娘が良く話に出していた場所を目指すわけで、捨てられてなおヒトを信じていたのでしょう。健気さと、切なさが心に深く刺さる、大好きな歌詞です。
さて、歌詞解説としてはここまででこの部分の話を終えるのが正解でしょう。しかしなぜ、私がこれを「ケモナー情緒ブレイカー」と評したか。というか正確には私の情緒をぶっ壊したか。
捨て猫としての視点で、捨てられた側の視点で、苦しさと切なさと、それでも忘れられない飼い主への(飼い主との)愛情、という形で捉えてきましたが、拡大解釈すれば、この歌詞は、『別れにより失われた愛情』の話なんです。捨てられる、という形でなくとも愛情が失われることはあり、その愛情に取り残されてしまったものの感情。
そして、獣医師、という仕事の私が1番向かい合う別れは、死別。
動物側だけの話じゃなかったんです。なんなら人と動物、という関係性だけの話でもないんです。遺された側が、そのぬくもりに想いを馳せる、という事。亡くなって冷たくなった身体を撫でながら泣く飼い主さん、お気に入りの場所だった所に陽が差していて、その子の体温では無いはずなのに暖かさにその子を思い出す事、何度も見てきたし、私自身も経験をした。温度は、ぬくもりは、生命の灯に直結する。
遺された側の切なさ、つらさ、「呪いのように」続くそれは、自身のペットロス経験を思い起こさせた。と同時に、思い出したんです、私は、こうゆう想いをさせたくないからこそ、より生命を救いたい、って強く願うようになった事を。
そして、どんなに強く願ってもそれでも零れ落ちてしまういのちたちに、耐えられなくなってしまった。こんな事を自分で書く事に違和感を感じてしまうのですが、元々自分の身を切ってでも救いたい、という気持ちが強いじゅーいしだった私が、より強化されてしまった。強化、、?狂化かもしれない。少しでも救える可能性が高い方へ、と進んだ結果、家に帰らない選択が増えた。救えないかもしれない、と思う相手を前に、脳裏に響くんです、その23文字が。そして、それでも救いたいんだ、と願うようになった。いや、元々諦めは悪い人間だったけどね
私の心を深く抉り、行動を少し変えてしまうほどには、この歌詞は、衝撃的だった。当初はこれに引っ張られていて、この歌詞を天才的だと思う一方で、ひとに安易に勧められないな、と思うほどであった。
こう書くとなにやら悲痛なような気がして、だから自分で書くの何か嫌だったんですが、実際の(今の)私は苦しかったりはないですのでね。むしろ、心が折れそうになった時に自分を奮い立たせるためとして、その23文字を、呪文のように(呪いのように?)繰り返しては闘っています。
そうそう、呪い、という言葉。のろい、と読みますが同時にそれはまじない、でもあり、つまりはその23文字の前の「醒まして君の夢ぼくにかけた魔法も 全部認めたいから」の魔法と同じ意味である。ポジティブな意味での愛情という魔法が、ネガティブな呪いへと形を変えていくの、どうしようもなく切なくて、そこも私はとても好きです。
そもそも、果たしてその魔法は本当に呪いへと変質してしまったのか、と考えると、また少し違った捉え方もできます。呪いのよう、ではあってもそれは確かにまだ愛情だったのでは、と。劇中でみいこは事あるごとに故郷の景色と、カイくんと遊んだ日々を思い起こします。しかも楽しい時に。みいこを見ていると、呪いのよう、と評された暖かな記憶は常に心の奥底で、みいこを元気付けているのでは、と思いました。ミコにとってもそうだと良いな。
もう一つ舞台に関連して。舞台で日菜森めぶきさんが演じられた、むぎというキャラクターがいるのですが、彼女は猫カフェの猫だったのが火事で家を失い、人間不信になって秋葉原で独り野良猫をしている、というキャラクターでした。詳しくは(まだ全然書き終わらない)ネコマタの感想ノートで触れるつもりなのですが、人間不信になり、家猫に戻るのは無理だった、と語る彼女も同じように思っているとしたら?人間不信になった彼女の脳裏に、暖かな猫カフェでの日々の記憶があるとしたら?「家猫に戻りたいと思えなかった」んじゃなく、「家猫に戻るのは無理だった」と言ったんです。暖かな記憶と、トラウマのようになってしまった恐怖の中で、どこか寂しそうに過去を語るむぎちゃんを想うと、苦しくなってくる。ミコみいこは最終的に家猫に戻りましたが、むぎちゃんも幸せになってほしいなぁ、と。いや、少なくともあの話のなかでは野良猫たちみんな楽しそうに生きてましたけれどね。この話はまたいずれ。いやもう二ヶ月経ってるんでいい加減書き終わらなきゃとは思ってるんですが、、もう少しだけ待って、、、。
さて、話を戻しますが、情緒をぶっ壊された私は、どうにもその歌詞に強く引っ張られてしまい、この文章を柏木椎名らしいテーマである、前向きさや芯の強さから離れたものとして捉えてしまっていました。それが変わったのが、11/10のCDリリースを経て少し経ったある日のこと。CDリリースにより2番が追加され、歌詞の追加と全体の構成がようやく分かる形になったのですが、ある日、インストゥルメンタル音源聴いてて気づいたんです、「醒まして君の夢ぼくにかけた魔法も」の部分から、楽器の名前とかはわからんのですが、爽やかな高音のメロディが追加されていることに。「とかして僕の中流れ込んだあの空も全部もう寂しくはないよ」というその次の歌詞もあってか、晴れ渡る空を、陽射しを彷彿とさせるような音でした。
それを分かってから、あらためて全体の歌詞と構成を見てみると、1番が別れの直後、2番が少し時間がたって前に進み始めた心境に感じた。音も、1番の間中は静かで最低限の音しかなかったのが感想で新たなメロディが加わり、2番はそれが変化したものが流れ、2サビで再び感想のメロディが返ってくる、心の動きと前向きさが少しづつ音数の増えていくメロディと重なって見えました。その上でのこの部分の新しいメロディ。起承転結でいう転なのでしょう、決意に溢れたような、清々しい音は、「呪いのような」思い出も含めて、引き連れて進んでいくような力強さを感じた。
そしてその後のラスサビ。さらにインスト音源聞き込んでようやく気づいたんですが、2サビの音たち+その部分の新しいメロディ、全部入ってるんですよね。気づいた時、涙が出てきた。
曲の構成も、舞台の主題も、柏木椎名の書いた歌詞も、全て、「前向きさ、まっすぐさ」を表していた。
その23文字に私が引っ張られた、抉られたのは紛れもない事実だけど、それ以上に、柏木椎名は「その先」を、それでも生きていくという強い意志を描いていた。底抜けに明るい、とはいかなくても、今回もやはり柏木椎名らしいテーマを彼女は表現していた。
「おはようとおやすみ 君以外に言うの ただそれだけ」切なさと強さが同居した、紛れもなく柏木椎名らしい曲だ、と思った。
いや本当、天災だったし天才だよ、マジで。
さて。あまりにその23文字についてばっか話しているので、もう少し歌詞解説らしく、他の部分にも少し触れていきます。上述の結論を踏まえた上で見ていくと、どのフレーズも切なさと強さと、時に見せる弱さで構成されているように感じます。
私の特に好きな歌詞のひとつ
「回るレコード諭すキラーチューン 忘れたいステップで ダンスフロア一人でまだ透明な君探してる」
諭す?????諭すの????キラーチューンが??
有史以来キラーチューンに対する述語として諭す、を使ったの柏木だけなんじゃなかろうか、というくらいマジで?となった。キラーチューン、ダンスフロアという部分から恐ろしく遠いところにありそうな諭す、という言葉。アゲたり惹きつけたりするのが常(偏見かも)なキラーチューンが諭す、とは。きっと思い出の曲だったんでしょう、思い出に直結する曲が、いるべき人の不在を逆に助長してしまうような、そんな切ない『諭す』。
2番では「繋いでミュージック救うBPM」とやはりクラブ文化(DJ文化)に関係する言葉を使っていますが、柏木椎名自身が一部のクラブミュージックに対して造詣が深かったり、ある種の憧れを持ってらっしゃるようで、別れの切なさ、孤独をクラブ文化で表現するのは、ディア☆のハローワールドエンドなどでも少しだけ出てきています。って思って今確認したらダンスとミュージックくらいだったけど。この曲はむしろ曲調がクラブミュージック(分類はわからん)寄りなのでそれもあってそう思っていたようですね。主題がさよなら、かみさまにわりと近い気がしていて是非おすすめ
この曲も、別れと、それでも「じゃあ、すすむね」と前向きに生きぬこうとする強さで成り立っています。
さよなら、かみさまは歌詞全体を通して切なさに包まれているのですが、上でも少し触れたようにCDリリースにて初めて公開された2番の、時間経過により少し前向きに過去を思い返している描写がとても好きです。
「ねえ、少しだけ伸びた髪で君の好きな季節は過ぎてく」「不確かな君でなぞった生活に名前もなくて ぬり潰せたらいいのに わかってる」
時間が経ち、客観視しながらも、思い出の中に常にその人はいて、戸惑いながら前に進もうとしている健気さ。この部分あってこそ、その先のあの部分の裏にある力強さに繋がっていくようで、ここも本当に大切な歌詞。
この記事の大半はあの23文字についての話でしたが、そもそもこの歌詞の全体を通して滲み出る切なさ、真っ直ぐさ、裏にある強さが好きで、本当にどの部分を取っても愛おしい。
なので皆様には是非CDを手に取って、歌詞カード眺めながらこの曲を聴いてほしい、と思った
、、、わりにはインターネットサイン会の受付に間に合うようにこの記事あげれてないんですけどね!!!詰めが甘い私。仕事以外で締め切り守れなさすぎでは。
そんなわけで、約二年振りとなった作詞家としての柏木椎名の作品は、物語に合わせる、という新たな試みもありつつ柏木椎名らしさもとても出ていた、素晴らしい曲となりました。いや本当これからも作詞やってほしい。