イラストという形での楽曲の再解釈、再構築かもしれないあれ
タイトル見てもなんのことやら、という感じでしょうが、現在、東京早稲田のギャラリーくらげにて第二回#DSPM文化祭!という作品展をやっておりまして、それに柏木しいなが出展した絵、「ゆーとぴあ」が、「僕のゆーとぴあ最終論♡」もしくは「ディア☆」の作品群の再解釈的な意味を持つのでは、と(勝手に)考えて、ここに妄想の様な感想を垂れ流す事にしたわけです。
Twitterにはそんなに深掘りしない感想だけあげました。
タイトルとか背景写真とか、見た瞬間色んな思いがわっと沸いてその意味だとかを深読みしようとあれやこれやしてたらすっかりあげるタイミング逃してしまったこちら。
— ごりら (@ayum_goh) July 10, 2021
明日まで早稲田で見れますんで是非見て
#DSPM文化祭 pic.twitter.com/pbUk5Ithm8
まず初めにこの作品を見たときに頭に浮かんだのは、ゆーとぴあ、というタイトルから僕のゆーとぴあ最終論♡、中央に描かれているメイド服の女の子は、ディア☆のグッズの一つ、公式Tシャツで「ディアって言うな」と言ってるあの女の子に似てるように感じました。
そして背景は(柏木しいな作詞では無いものの)ディア☆の楽曲「Fritillaria」のジャケット写真をベースに、所々切り取られ柏木の絵によって加筆されている。
ディア☆のモチーフを敢えて選ぶ事の意味、と考えた時、「今の柏木しいな」による再解釈、再提示みたいなメッセージがあるのでは、と思った。
じゃあどんなメッセージ?と考えてみる。上述の様にベースはFritillariaのジャケット写真、秋葉原の通りを深夜に撮影した写真が使われているが、枠で切り取られた中はボロボロになった看板、おびただしい量の瓦礫、穴の空いたビル。世界の終わりの様な光景。
その中で少女は「ゆーとぴあコチラ→」と書かれた看板を肩にかけながら微笑む。周りの(絵の中の)壊れた世界と、何も変わらない秋葉原らしい日常を過ごす少女の対比が美しかった。
なぜ柏木しいなは、絵の中で秋葉原を「壊した」のか。秋葉原の光と影、表と裏、みたいな事だとも少し考えたが、何かしっくり来なかった。なぜなら、柏木しいなは秋葉原に対してネガティブなイメージを持っていなかったはず。 「僕のゆーとぴあ最終論♡」の解説を自らした文章の中で、ゆーとぴあ=秋葉原だと、全てを包み込んでくれるこの街が好きだと言っていた。
ならあの絵の中の秋葉原は何なのか。この絵が「僕のゆーとぴあ最終論♡」の再構築的な意味を持つなら、きっとそれは「終末世界」なのだろう。そしてその中で微笑む、メイド服姿の少女。私は最初ディア☆のTシャツの彼女なのかと思ったけれど、よく見てみるとメイド服が長袖→半袖になっていたり、右目にかかるくらいだった前髪が右目を隠すほどに伸びていたり、別人なのかもしれない。ここから先だいぶ恣意的な解釈を含んでしまうけど(今までもそうだけどな)、ひょっとしたら、三年と言う時間を経た、あの子なのかもしれない。そして彼女は微笑むのだ、
「終末世界 きみとなら 間違いないでしょ?」と。
どんどん自分勝手な解釈となることを断っておくが、今こういった形で曲の再解釈とも取れる(勝手に取ってるだけ)作品を発表したか。ちょうど一年前、電波人にて「僕のゆーとぴあ最終論♡」がプレイされたのを契機に改めて歌詞を考えた時、あの曲の世界とコロナ禍がとても重なって見える、なんて言う話は以前私の記事に書かせていただいたと思います。
そして今の秋葉原。あの絵を見た日、秋葉原に降り立った私は、写真と変わらない、いつもの秋葉原がそこにあるのを見た。と同時に、主として精神的な面で、「変わってしまった」と心の中で思う私がいた。「写真」と対比させられたあの絵の世界は虚構であると同時に、内面的な、精神的なものでもあるように感じた。まぁもっとも私自身の秋葉原との関わり方が大きく変化し、強く「変わってしまった」という思いが私の胸の内にあるが故の解釈ではあるけれど。ただ、そう思えば思う程、中央の少女がこちらを「ゆーとぴあ」へと誘うのは、以前の記事で私が勝手に読み取った柏木しいなのテーマである、「どんな世界や環境でも、明るく輝き周囲を導いていく」という像ととても似つかわしく思うのです。