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「個」か「全体」か論争、飽きた。

寓話 『ラッピの問い』

#学校教育現場の実際 #介護現場の実際 #朝井リョウ 「正欲」 #石丸伸二現象 #齋藤元彦現象  などから寓話化


深い森の端にある学校に、若いウサギのラッピがいました。彼は毎日同じ宿題が出されることに疑問を持っていました。

「なぜ僕たちは、いつも同じことをしなきゃいけないの?」とラッピは先生に尋ねました。

先生は優しく微笑んで答えました。

「それが森の決まりで、みんながうまく暮らす方法なんだよ。」

でも、ラッピは何かが腑に落ちませんでした。

ある日、宿題で「森の大きな木を描く」課題が出ました。ラッピは森の木を見ながら絵を描いていましたが、ふと疑問に思いました。

「本当にこの木、元気なのかな?」

そう思って木のそばに行ってみると、根っこが露出して土が崩れかけているのに気づきました。

「こんな大事なこと、宿題には出てこないなんておかしいよ。」

その夜、ラッピは宿題をせず、森のもっと奥へと足を運びました。そこには見たことのない植物や、不思議な生き物たちがいました。ラッピは夢中になって観察を続け、その中で森の土が弱くなっていることに気づきました。

「このままだと森が崩れてしまうかもしれない…」

翌日、ラッピは学校で仲間たちに話しました。

「森が危ないんだ!土が崩れそうになっているよ。」

でも、仲間たちは笑いました。

「また変なこと言ってるよ、ラッピのやつ。」

先生も「宿題をしない生徒の話に耳を貸してはいけません」と言うだけでした。

それから数日後、ラッピが心配していた通り、森の一部が大きく崩れました。動物たちは住む場所を失い、大混乱になりました。驚いた仲間たちはラッピに尋ねました。

「どうしてそんなことがわかったの?」

ラッピは答えました。

「見て、感じて、自分で考えたんだよ。」

その出来事の後、学校では生徒たちが自分の興味を探求できる時間が設けられるようになりました。しかし、一部の動物たちは不安を口にしました。

「みんなが好き勝手に動けば、また混乱が起きるんじゃないか?」

森は新たな活気に満ちていましたが、同時に意見の食い違いも増えていきました。ラッピは考えました。

「個々の学びが全体のためになるのか、それともみんなが同じ道を進むべきなのか?」


ミナサン、この話の本当の問題は何だと思いますか?


独断と偏見による解説

ここからは、この物語の本当の問題を独断と偏見により解説していきます!


本当の問題は何か

 この物語が伝える本当の問題は、「個人と全体の非対称性」と「ルールに内包される脆弱性」です。つまり、「個人は独立して存在できるけれど、全体(社会や組織)は個人なしでは成り立たないこと」と、「ルールは組織を崩壊させるリスクを常にはらんでいること」です。それを前提に議論を始められるかがポイントになるはずです。

一般的な議論の問題点

 そうであるにもかかわらず、「個」と「全体」は同じ価値であるという考えが一般的なようです。そこで行われる議論は、「どっちもどっちだよね」「難しい問題だけど、やっぱバランスが大事だよね」にみられる陳腐な相対化です。あるいは、それに飽きて「個」か「全体」のいずれかのポジションをとることにした熱心な人たちによる炎上です。数直線でいうと、両極か真ん中を安易にとりにいくイメージです。
 この安易なカマキリ感が議論の進展を阻んでいるわけです。


個と全体の非対称性:全体は個人なしには存在できない

 「個」はそれ自体で独立して存在できます。ラッピが森の中で一人で感じ、考え、行動したように、個人は自分自身の判断と行動で完結します。一方で、「全体」はどうでしょうか?全体(森、社会、組織)は、個人の集合によって成り立つものであり、個人がいなければ成立しません。これが非対称性の本質です。
 しかし、全体の価値が個に依存しているにもかかわらず、全体を守るためのルールやシステムが、逆に個を縛り、行動を制限してしまうことがあります。つまり、個が全体を支えるのに、その全体が個を抑圧するという矛盾が生まれるのです。


ルールに内包される脆弱性:守るはずの全体を崩壊させるリスク

 ルールは安定をもたらすために作られます。しかし、よいルールやシステムになればなるほどルールやシステムに依存してしまう現象(「オートメーション・バイアス」)があります。いわゆる手段の目的化です。そうなると、そのルールに無条件に固着し、個々の自由な発想や行動を抑え込むことで変化に対応できず、かえって全体を危険にさらします。これは、ルールがその内側に自己崩壊のリスクを常に抱えているということをあらわしています。 

  • 固定化されたルールの危険性:森の「規則」が、ラッピのような新しい発見や警鐘を無視した結果、森全体の危機を招きました。

  • ルールの限界:規則を守ることが全体を守る方法だったはずなのに、その規則が適応力を奪い、全体を崩壊させる要因になったのです。


解決のために必要な視点

 この物語から学べる教訓は、次のような新しい問いをもつことにあります。

  1. 「全体を守るルール」をどう再設計すべきか?

    • 全体を守るためには、ルールが状況に応じて柔軟に変わる必要があります。変化に適応し、個人の多様な視点や行動を取り入れられるようにすることが重要です。

  2. 非対称性を認めた上で共存するためのきっかけは、誰のどんな話にあるか?

    • 全体は個に依存しているという現実を受け入れる必要があります。その上で、個人の自由と全体の安定を両立させるための工夫を個人側の蓄積により考えなければなりません。

  3. ルールを目的ではなく手段として維持するには?

    • ルールは固定された絶対的なものではなく、全体を守るための「手段」に過ぎません。必要に応じて見直し、個々の意見を反映できる柔軟性を持たせるべきです。


結論

 この物語が教えてくれるのは、全体を守るためにこそ、個の尊重と変化に対応する柔軟なルールが必要だということです。そして、「個」と「全体」の非対称性を理解しないまま、規則を絶対視するシステム主義に頼ることが、最も危険な選択だということです。
 「個か全体か」という問いは、議論を狭める誤った前提に基づいています。それに対する「個も全体も」というバランス論も、結局は本質に届きません。本当に問うべき問いは、「全体を守るために、個をどう生かし、個の自由な発想が全体をどう強化するか」です。この問いが議論の中心に据えられるとき、「個」と「全体」の関係は陳腐な対立や相対化を超え、新しい共存の可能性を切り拓くでしょう。
 この視点を巷に溢れる「個か全体か」の議論に変わって地球の裏側まで届けましょう!

以上、寓話〜るどでした。




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