軽度知的発達障害児が特別支援学校に居場所を見つけるまでの長すぎる軌跡〈1〉概略
はじめまして。Goopaママです。この時期就学相談を経て4月からの進学先が決まり新しい始まりに胸を膨らませている保護者だけでなく、思っていた進学先と違う決定が出て戸惑っている保護者などいろんな方がいらっしゃると思います。
進学先が決まれば普通は安心ですよね。ところが我が子の場合は、進学先の小学校が決まってからもそこが彼にとっての居場所にはなることはありませんでした。親子ともに本当に切羽詰まった状態になり、やっと特別支援学校への転校が認められるまでなんと4年。今は、恵まれた環境のもと本人ものびのび楽しく自分の居場所を少しずつ創り上げています。
自己紹介
Goopaママです。Goopaという発達の気になる子と楽しむイベントサークルを主催しています。 そうなんです。子ども大好きです。もともとは小学校の先生になりたくて大学の頃は教育学を専攻し小学校の先生になる気満々でした。ところが母校に教育実習に行った際に、尊敬していて卒業後もずっと仲良くしている先生から、「あなたはもっと外の世界を見てきなさい。そしていろんな経験をしてから戻ってらっしゃい」と言う言葉に背中を押され、若かった私はその言葉を真に受け、それならばと途上国の学校を見に行ったり、海外で学んだり、一般企業で子供関連の企画などをしていました。
そうこうするうちに、結婚し今は3人の子どもにめぐまれました。このタイトルの主人公は3番目の子どものすーちゃんです。上の子たちの産後は出産前の仕事関連でパートで働いていましたが、すーちゃん出産後に一旦仕事を辞めました。すーちゃんが年中の時に仕事を再開し、児童発達支援サービスで働いていたこともあります。小学生になったらフルタイムに戻ろうと考えていましたが、それが叶うことはありませんでした。これについては今後のnoteにて詳しく書いていきたいと思います。
そして、そんな状況を変えるべく2019年に同じように子育てで大変な思いをしている保護者が少しでも子どもたちを安心してつれていくことのできる居場所を作りたいと思い、発達の気になる子と楽しむイベントサークルGoopa(ぐーぱ)を立ち上げました。現在は保護者からも要望の多い、運動系施設の貸切イベントや勉強会などを行っています。
就学相談で適とされた特別支援学級での生活が子どもの居場所になることはなく、特別支援学校に転校するまでの4年間は本当に長すぎました。本来なら転校する必要もなかったはずだし、家の近くの学校の特別支援学級で卒業させたかったです。しかしながら、特別支援学級では手に負えない子ということで、学校に来て良いと言われたのは放課後のみとなりました。そんな子が転校してから、のびのびとそして先生方から学校生活を本当に楽しんでいると言われた時のこれまでの長かった苦しい時期が終わり一段落したようにも感じました。同時にあれほど保護者がいろいろ働きかけても何も変わらなかった、変えることができなかった学校の体制というのは、教員不足や長時間労働なども起因となっていて今後も簡単には変わらないと強く感じました。特別支援学級であっても、手がかかる子は他の学校でも登校させてもらえないというケースがあると聞きました。声をあげても簡単には変わらない体制に声を上げ続けることで少しずつ良い方向に向かっていくということを伝えたくて、さらに同じ境遇の保護者にエールを送りたくてnoteを始めました。
環境が整えば精神的に安定すると言っていた医師の言葉は本当だったなと今だから思えます。まだまだ(きっと一生)試行錯誤は続きますが前向き育児一緒に頑張りましょう!
これまでの概略
タイトルの「軽度知的発達障害児が特別支援学校に居場所を見つけるまでの長すぎる軌跡」に登場するのは現在特別支援学校の5年生の3人兄弟末っ子男子です。
小さい頃は多動もあったため、本当に活発でというか止まることを知らない駆け抜けているような子でした。歩き方知っている?というほど走りまわっていたのが懐かしいです。そんな性格だったので、
私の中でADHDを
A あっと驚くスピードで
D どんなときも
H 本当に好きなものに向かって
D どかーんと突き進むこと
と独自の略を考えていたくらいでした。
上の子たちの子育てもあり3歳くらいまでは、出かけるととにかく追いかけていたなあという記憶や、上の子の行事や参観日に連れて行ったら何も見れないというのが常でした。
幼稚園は上の子たちと同じ園に3年保育で年少から通っていました。3歳児検診では問題なしと言われていたため加配などはつかず、小さかったことや園の先生たちの理解があり卒園まで温かく育ててもらいました。
3歳児検診では3人の末っ子だし元気でとてもいいわねと言われ、明らかに落ち着きがないのにこんなものよ男の子はと言われ発達の指摘は特になく経過観察でしたが、毎日へとへとになるような子育ては親から見れば明らかに上の子たちとは違う大変さがあったので、経過観察なんて意味が無いと思い、知人に紹介してもらった児童精神科を4歳半で初めて受診しました。
その後、小学校進学にあたり知能テストなどを受けて軽度知的障害・ADHD(その当時はまだ確定ではなかった)と診断され小学校入学前の就学前相談では特別支援学級適との判断が出されました。しかし、地元に友達や知り合いを作りたいとの思いから学校に相談し1年生の間だけ保護者のサポート前提で普通学級に在籍することとなりました。ベテランの担任の先生のおかげで1年間元気に楽しく過ごすことができました。勉強は二学期後半からはほとんど、ついていけなくなりましたが、今だに近所の同級生が声をかかてくれたり公園で会うと遊んだりできるのはこの時があったからだと思います。
2年生から5年生の途中までは、自宅近くの公立小学校の特別支援学級にて学びましたが、いわゆる問題行動と言われる類のものが目立つようになったのは特別支援学級に移動してから急激に多くなり、残念ながら学校で他の子たちと同じように楽しく安全に過ごすことができなくなりました。2年生の途中から頻繁に学校で癇癪を起すようになったため服薬もはじめましたが、あまり効果がみられないことも多く急なお迎えでの下校が続きました。
そんな時に、軽い感じで特別支援学校への転校をすすめられ、公立,私立ともに見学に行きましたが、私立は送り迎えに遠すぎることで断念しました。公立は、就学前検診で特別支援学級適との判断が出た子の転校は難しいことや、年度途中の転校は出来ないこと、一度特別支援学校に転校すると特別支援学級へ戻ってくることは難しいことを教育委員会から言われ、その時はまだ決めきれず在籍級にて改善できるところを対応してもらうことになりました。
3年生の間は本人が安心するのではないかという理由で学校内や教室内での短時間の付き添い登校になりました。それに伴い、母と二人で家にいる時間が格段に増えストレスもたまり家での癇癪も日に日に激しくなる一方でした。あっという間に3年生も終わりを迎えることになり状況が改善しないため、わらをもすがる思いで小児専門の入院対応のできる総合病院に転院し主治医を変えました。その主治医が今この子に必要なのは入院ではなく、合う薬を見つけることもさることながら環境を整えることという話をし、学校とも積極的に関わってくださりいろんなことが少しずつ前向きに進みだしました。
ちょうどその頃4年生になりましたが、学校は放課後45分だけ他の子どもたちのいないときに登校し、他の時間はオンラインで授業に参加という形態でした。結局医師が学校に提案していた、学校に登校する時間をもっとのばして子どもたちと関わる時間が増えれば安定していくのではないかという意見は、癇癪を起したときに対応できないという理由でなかなか認められず1年間放課後だけの登校となりました。
5年生になり、これでは子どもたちとの関わりが2年以上画面上のみになってしまうと危機感を覚え、朝から登校して良いと言ってくれる場所探しが始まりましたが難航しました。というのも今いるところが本来居場所であるべきところだからです。教育委員にかけあっても2年前とまったく同じことを言われました。でも本人は朝から学校に行きたがっている、そして親と自宅にいる時間が長すぎて精神的にもかなり負担となっていることを医師がケース会議で訴えても動くことはありませんでした。
そして1学期を終えようとした時に、たまたま違う学校の特別支援学級から年度途中に特別支援学校に転校する子がいるという話を耳にしその方を紹介していただくことになりました。
教育委員会から言われていた前例が無い、できないと言われていたことをやった人がいるならできるはずとなりそこから彼女の協力のもと事態は急展開し、動き出してから2か月と少しで、すーちゃんは無事に特別支援学校に転校し今は、学年で1番学校生活を楽しんでいるように見えますと先生に言われるくらい楽しく学校生活を送っています。それに伴って笑顔も増え自宅での癇癪もほとんどなくなり穏やかに過ごせる日がとても多くなりました。
決して一般的な例ではないけれども、前例が無いとかそういうことはできませんと言われて悔しい思いをしている保護者や不安に思っている子どもたちに環境を整えることが成長していくうえで欠かせないことなので、この4年間の長すぎるけどやっと願った環境を整えるまでにどんなことがあったかをこれからのnoteで少しずつお話していきたいと思います。
全ての子どもにとって安心して学んだり遊んだりする居場所が保証されるようにと強く願っています。
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