父の癌

それは私にとって20代最後の年だった。
年末の慌ただしい、そんな日だった。
「お父さん、胃が痛いって病院行かはってんけどなんの処置もないねん。来年の頭まで検査結果でーへんらしいねん。」
母親の不安げな表情から、最悪の想定をしてしまう。
昔から病気がちな父親で病院に通いつめていたわけなのだが、今までと空気が違っていた。
「そおなん。大丈夫やとええなあ。」
深く探る事は出来なかった。思い過ごしであってくれと願うばかりだった。

年が明け、新年の挨拶にと同棲している彼氏と共に両親を尋ねた。なんてことのないいつもの空気感で私は年末の事は気のせいだったのかなと思いながら父親の作ったおせち料理を食べていた。
「せんりちゃん、話があるんや。」
「どないしたん。」
聞きたくない、でも聞かなければいけないのかと、表情を見て察した。
「ワシな、癌やったわ。でもな、生きるから。意地でも生きるから大丈夫やで。」
ああ、泣いてはいけない。
「そおやったんか。」
素っ気ないこの一言が私の精一杯だった。
この人はこの期に及んでまだ娘の私を心配してこんな言い方をしているのだと。無下にしてはいけないのだ。泣いてしまったらこの人が生きると言った言葉も否定してしまうような気がした。

母親から詳しく病状を聞かされる。
「お父さんな、膵がんのステージ4やねん。肺に転移してるねんて。お母さんどないしたらええんやろ。」
細い肩が更に弱々しく小さく見えた。

「お父さん癌やて。」
彼に告げる。彼はただ黙って私の弱音を聞き続けてくれた。数分の沈黙のあと彼が口を開いた。
「せんり、結婚早くしようか。お父さんが元気でいられるうちにしたほうがええやろ。」
婚約はしていたもののいつ籍を入れるかなんて何も考えていなかった。これが最後の親孝行になるかもしれないと思い、真剣に結婚に向けて全力疾走することにしようと帰りの車の中でふたりで決めた。

そこから結婚までは本当に早かった。
彼の両親が結婚式を挙げて欲しいと要望していた事もあり、抗がん剤治療のスケジュールを合わせ、私たちに与えられた準備期間は1ヶ月だった。
それでも、父親が結婚式に出られるのであれば必死にやる意味がある。
休む間なんてなかったが、気にならなかった。
当日のあの立派なモーニングコートを着た父親の姿を私はずっと忘れないと思う。
白無垢とモーニングコートで腕を組み一緒に歩いた。
式の写真を見返しても父親はとても元気そうに笑っている。今まで親不孝者だった私が唯一出来た親孝行だった。

抗がん剤治療は想像していたより苦しくなさそうに見えた。髪は抜けてしまったが、歩けるし自転車だってこげる。ご飯だって一緒に食べられた。お肉や生魚は無理だったがイタリアンバルに出かけたりもした。
「髪の毛無くなったからこないして外に出るんや。ええやろ。」と、オシャレな帽子を被り、サングラスをかけて見せてくれた。
なーんだ、これなら大丈夫だ。生きられる。まだまだ一緒にいられる。そんな事を思っていた。

8月のど真ん中。父親の誕生日を迎えたその夏は冷夏なんて言われていたがとても暑いその日、父親は遂に抗がん剤を投与出来なくなった。
体力がなくなり、味覚障害が現れた。腰の痛みが強く、それに耐える事に必死になった。
それでも父親は弟の心配をしていた。
「東京都内の家賃高いとこ住むらしいんや。ワシ心配や。大丈夫なんかアイツは。」
怒り口調で話しながらも書類に目を通していた。
ああ、まだしっかりしてるな、早く抗がん剤治療が再開出来ればまたご飯にも行けるのかな。
誕生日プレゼントには外で使えるようにと帽子を用意していた。一時的なものだろうからまた外に出られる。そう信じていた。

その日は突然だった。
夜遅くまで仕事をした雨の日だった。
タイムカードを押し、携帯を見ると母親から切羽詰まった連絡が数件来ていた。
「お父さんが救急搬送されました。」
「早く連絡して。」
あれ?この前会った時喋ってたのに。立ってたのに。
頭が真っ白になりながら、上司に事情を説明し飛ぶように実家に帰った。
母親は必死に気丈に振舞ってはいたが、ひどく動揺しているように見えた。
「今日病院行くんに介護タクシー乗せようと思ったねん。車椅子乗せたら意識がなくなってな、呼吸がおかしくなってな、もうあかんのかと思ってな…怖かったわ…。」
幸い救急車の中で意識が戻り、大事には至らなかったようだが明らかに今までと違う症状だった。

意識がはっきりした父親は腰と首の痛みを訴えた。耐えられない。眠れない。
投与された薬は、麻薬だった。
痛みがあるのはとても辛いだろうからその判断は当然なのだろうけれど、とてもショックだった。
父親本人もこのまま麻薬でなにもわからない状態にされてしまうことが怖いのか痛みの原因は癌ではなくヘルニアではないのかと訴えた。
しかし主治医は言う。
「おそらく癌が神経を圧迫している痛みです。整形のものが原因であったとしても、意識をなくしてしまう可能性がある今出来る治療は痛みを取る事です。早く楽になれるように頑張りましょう。」
複雑な気持ちだった。
母親と弟は「楽になれるように」が気になったらしくどういう意味なのかと気を悪くしたようだった。
「癌のせいかもしれんけど、ワシは整形外科の先生に診てもらいたいなあ。」
か細い声だった。
がん患者が入院すると診てほしい人に診てもらうことすら出来ないのかと思った。

父親は今も突然襲われる失神と痛みに耐えながら生きている。
いつまで一緒にいられるのか。会話することが出来るのか。
何をしても後悔するのだと思うが、今は今出来る限りの最良を選びたい。
最後の親孝行だ。

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