買い物かごを持つ前に
スーパーに買い物へいくときのはなし。
スーパーに着いたら入口でかごを持ってみんなの流れに合わせてぐるりと売り場を巡るのが普通だと思う。アンチテーゼを唱えたい。
子どもも連れず、ひとりでスーパーを訪れたときだった。ふと買い物かごを持たずに売り場を5分もかけずにグルーっと回ってみた。
お店になにがあるかがザーッと頭に入る。その瞬間、自分の内側からも今日の晩ごはんのインスピレーションが湧いてくる。そういえば、冷蔵庫にそろそろ使い切りたいレンコンがあったな、にんじんと合わせてきんぴらごぼうにしよう、的なやつ。
考えてみるとスーパーマーケットでの買い物というのは非常に複雑な情報処理をしている。家の冷蔵庫の状態、自分の料理のレパートリー、家族の好み、それに加えて、定番レシピを出しすぎると不評になるので頻度も考える必要がある。(スーパー)マーケットの方に目を向けると、食材の旬であったり、昨今では値段の高騰も激しいので、無思考に買い物かごに入れるのもためらわれる、こうした予算制約を考慮しなければならないことも多い。
こうしたかなり複雑な思考を通して買い物かごというパッケージを仕上げる行為がスーパーでの買い物という行為。ここまで書いて思い出したけど妻が読んでいた桐島洋子の本でも買い物に要求される知的レベルの高さについて語られている。
ところで、こんなにも複雑な行為であるのに私たちは売り場というよくわからない空間を予習もせずに向き合うことが当たり前になっているのは、実は不思議なことなのかもしれない。
先日、栗原はるみさんのレシピで焼きそばを作ろうと思ったときのこと。オイスターソースと醤油を1:1で合わせるシンプルなやつでとてもおいしいし手軽でおすすめ。
野菜売り場でにんじんやしめじを取ったあと、そのまま麺コーナーに行ったら、いつも買っている中太麺が売り切れていた。あの麺じゃなきゃだめなんだよ...と心の中でつぶやきながら献立の戦略を立て直す羽目になった。ロピアさん、仕入れの方をどうかどうかよろしくお願いします。
というわけで、スーパーマーケットという情報戦の場では探索活動の価値は意外と高い。反直感的であるのでそうそうやることはないかもしれないがもし時間があれば試してみてほしい。
ただ、この探索活動は身軽でないとやりづらい。子どもと一緒に行くときなんてまずできない。途中であれやこれやに捕まり、なぜか子どもにせがまれたお菓子だけを手にしてレジに並ぶという意味不明な結果に終わることもある。ご注意いただきたい。
なんでこんなこと書こうと思ったんだけっけ。忘れた。