情緒のない高性能住宅
高性能な住宅のことをいつも勉強している。高断熱・高気密・耐震性能、などのことだ。
勉強していると、もちろん頭では納得し、それを目指す設計をしようと思ってくる。でも、なんか消えない違和感もある。特にそれは温熱性能のところで。
高断熱高気密は、なるべく一年中快適な環境で暮らしましょうということなのだと思う。快適と言われるのは、温度とか湿度が関係してくる。冬では20℃40%、夏は25℃60%、みたいなやつ。窓を開けて気持ちがいいのは、5月と10月くらいなもんで、あとは窓を閉めておきましょう。みたいなやつ。
論理的には、きっとそうなんだと思う。
でも、窓って、開けたいですよね。まだエアコンもなかった子供のころ、真夏の夜に窓を開けておくと虫が入ってきて大変だった。でも、その虫にいちいち騒いだり、お父さんがやっつけたり、それはそれで僕の夏の思い出だ。
コタツって、いいですよね。ベタだけど、みかん食べたり、白菜の漬物食べたり。それはそれで、僕の冬の思い出だ。
温熱環境的に高性能な住宅に暮らすことって、外との関係を断つことなのだとしたら、それは嫌だな。などと、今更ながら思ったり。
今日は暑いからスイカでも食うか!とか、寒いから鍋でも食うか!みたいなのって、大事ですよね。なんか、大切にしたい感覚というか。
高性能な住宅に住んだことがない僕が言ってる時点でまったく説得力がないのですが、あんまり論理的な話ばっかりしてると、それって「建築」なの?とか思ってしまう。俺が好きな建築って、そこを超えた何か唯一無二の絶対的な説得力を持っていたよな、とか思ってしまう。
暑いときでも窓を開けよう。寒いときでも窓を開けよう。○○値なんて、○○等級なんてクソ喰らえだ。
違うか。。
人の気持ちって、もっと複雑で可愛いものだと思います。そこに耳を傾けない建築は、たぶん好きになれないし、そういうものはつくりたくない。
暮らし手の情緒が入る余地。それを残したい。