目的としての建築
建築は手段。
建築を手段として、社会をより良くする。異論はない。
小野寺設計店のミッション(仮)は、「建築の力ですべてをよりよく」だ。
でも、思うのだ。半分くらい、「目的」なのかも、と。
手段が目的になるのは、多くの場面で、良くない。
いつの間にかそうなっていくという特徴も持ち合わせており、より厄介である。
でも、僕が大好きなヒロトは、ロックンロールは、ロックンロールバンドは、「手段」ではなく、「目的」なんだと、言っていた。ような気がする。
つまり、バンドを組んだ時点で目的達成だ。
あとは、好きなように、かっこよくロックンロールをやってやってやりまくるだけで楽しいんだと。
僕は、ずっと建築を手段にしたいと思っていたし、いまでもそう思っている。
でも、建築が好きだから、設計が好きだから、設計ができれば半分くらい目的達成されているような、そんな気もしてきたのだ。
だって、楽しいし、夢中になれる。
だから、設計が軽視される建築の場面は、好きじゃない。
「契約」や「スピード」が最重要視される場面が、本当に好きじゃない。
「とりあえず」で行われる設計が、腹立たしい。
僕が、まったく楽しくないからだ。シンプルに。
あと、「時間をかければいいってもんじゃない」とか分かったような顔で言う人のことも好きじゃない。そういう人は、時間をかけていいものをつくった経験がないだけだ。シンプルに。
僕は、設計したい。ちゃんとやりたい。それだけなのかもしれない。
小野寺設計店のミッションは、「(仮)」のままだ。