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私の履歴書(8)銀行員時代③
私が2つ目の支店にいる頃、金融業界には波乱の時期にありました。
1997年、山一證券、北海道拓殖銀行などの大手金融機関が次々に経営破綻。日経新聞の一面に「〇〇銀行経営破綻」と太枠でデカデカと載ることのインパクトは強烈で、いよいよ昭和末期のバブルのツケが回ってきたことを、身をもって感じました。
毎朝、新聞受けから日経新聞を取り出すのが恐怖です。一面に自身の勤める銀行の記事が出るのでは、と恐る恐る紙面を開いたものです。
結果的に、自分の勤めていた銀行は公的資金を受けて息を吹き返しましたが、経営陣はこれを返済のするために、手段を選びませんでした。
この頃、銀行に投資信託の販売が解禁されました。この頃から、個人を対象とする営業部隊の仕事が大きく変わりました。
3ヶ店で勤務していたある日、顧客から、大口定期預金(1000万円以上の定期預金)を預かってきました。五年前なら「よくやった!」と言われたところですが、この日、上司から言われたのは、「アホか!なんで投信取ってこないんだ!」といった具合。
資金の性格がリスク商品に見合うかどうかは、支店や上司にとって関係ありません。とにかく「投信取ってこい」の一点張りです。
さらに、2001年に保険商品の窓販も開始されました。米国系保険会社の一時払い変額個人年金保険です。嫌な予想は的中しました。なぜなら、この保険商品の方が、投資信託よりも銀行に入る手数料率が高かったからです。
銀行全支店の中でも、私のいた支店は、イケイケどんどんの気風だったので、販売手法が滅茶苦茶でした。投資商品に対する知識も経験も浅い顧客(主に高齢者)に対して、私の上司は、言葉巧みに申込書を書かせました。
その頃に銀行員は、投資商品の取り扱いの基本を十分に学んでいませんでした。誰か一人、飛び抜けた成績をあげた者がいると、早速勉強会が開かれ、その人のやり方がスタンダードになる、という恐ろしい現象が当たり前でした。
投資信託も変額保険も販売に消極的だった私は、毎週月曜日の朝8時の営業会議で吊るし上げを食らいました。「やる気が無い奴」と思われていたことでしょう。
私は一人、過去の過ちを繰り返そうとしている銀行に怒りを感じ、自身の将来に極度の不安を感じました。
個人を対象とした営業に従事してきた自分は、将来、法人課に配属される可能性はありません。ましてや本部勤務も無いでしょう。銀行にいる限り、個人営業しか生き残る道がありません。
「自分が管理職に昇格しても、部下にこんなやり方を強要できない」
将来に対する絶望的な考えが、私を支配していました。