「メシア無謬主義」は日本統一教会独特の文化
天心苑と重生の時代というサイトについて、はじまりの啓示から間違っているという記事を書きました(「真の父母は一体である」という啓示の真偽)。
サイト運営者は善意で記事を書いているのでしょうから、膨大な内容をまとめた努力には敬意を表します。
その一方で、根底の価値観に「真の父母無謬主義(むびゅう:神のように間違えないこと)」があることに気がつきました。
「無謬主義」とは何か、過去記事から引用します。
このサイト運営者が、韓鶴子総裁のことを「神と一体の真の母」として崇敬したい気持ちは理解します。
ところが多くの日本食口は、人間が神と一体とはどういうことなのか正確に説明できませんでした。
再度過去記事からの引用です。
韓鶴子総裁を「間違え得る人間」と捉えることは、不信仰でもなければ神様への反逆でもありません。
ところが天心苑と重生の時代の運営者もまた(他の日本食口同様)、「真の母とは絶対間違えない方」というドグマに囚われているようです。
文鮮明師聖和後の韓鶴子総裁の言動が、真の家庭と統一運動の分裂を招いたことは明白です。
ところが「真の母無謬主義」に拠れば、それは文鮮明師から「予め指示された役目」であり、「食口が騙されることは想定内」であり、真の父母様の愛の深さを知っている「特別な人間」だけは、韓鶴子総裁の真意を理解できるというのです。
無謬主義のもう一つの問題として、韓鶴子総裁自らの責任分担を無視するのみならず、周囲の人間の責任分担までも奪ってしまうことが挙げられます。
人間を間違えない神としてしまうことは、周囲の人間に選択肢を与えません。
なぜならその方の行動は全知全能故に「100%正しい」のであり、もし何か問題が生じるとしたら、「(愛のない)周囲の人間が悪い」ことになってしまうからです。
思い返せば日本統一運動は、このような無謬主義によって食口の行動を強制し、自由と責任分担を奪い、メシアの人間的不足を責任転嫁してきた歴史だと言えるのかもしれません。
かつてアメリカの食口は、不貞を働いた仁進さんの公職復帰を民意で阻止しました。他ならぬ韓鶴子総裁が、公職復帰を指示されたにも関わらず、です。
しかしメシアだろうが何だろうが、間違ったことは間違ってると叫ぶ、人間として当たり前の行動ではないでしょうか。
ところが日本食口に限っては、「おかしいのでは?」と口にしただけで、「メシアの深い愛の意図を悟れない親不孝者」という烙印が押されてしまうのです。
韓鶴子総裁のカジノ収支を週刊誌が暴露した時の反応も、同様でした。
・そもそも事実無根であり、フェイクニュースだと退ける反応
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であれば名誉毀損で訴えれば良いのに、そうしていない。
・ラスベガスの娼婦を対象にしたチャリティースロット大会だと擁護する反応
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ギャンブルで勝った収益金を寄付するという意味か。収支は損失だったから寄付できなかったのでは。
・弟子たちにサタン世界を教育する目的だったという反応
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だとしても損失の桁が4つは違う。質素倹約は文鮮明師の教えではなかったのか。
これらの反応に共通するのが、「神様と一体のお母様たるお方が、間違った意図でカジノに散財するなどあってはならない、そう見えてしまうとすれば、不信仰で愛のないこちらの問題なのだ」という根深い無謬論です。
健全な人間の責任分担を取り戻せるのなら、もっと素直に行動して良いのです。
・略奪不倫の仁進さんが公職復帰だって?ふざけるな!
・幾らスロットマシンがお好きだとしても、限度というものがあるだろう!
このように怒りをもって反応したところで、神様から雷を落とされることはありません。
不快感を露わにするのは、無謬主義で同調圧力を掛けてくる日本食口だけなのですから。
かつて人権派ルポライターの米本和宏氏は、日本食口のことを「心がない」と揶揄しました。
(近く接すると善良な人ばかりだとしても)教団という村社会において、「無謬主義」に支配される構造を読み取ったからかもしれません。
それは彼が信仰を持たないから、そう見えるのではありません。
自由と責任分担という普遍的価値を蹂躙する、日本食口の間違った文化に起因していたからです。