FPAの現状が解散命令後の家庭連合の未来を暗示する
文科省によって解散請求が出される直前に、こんな記事を書きました。
信仰の自由や信者の人権を盾に解散命令を回避する戦略は、欺瞞に満ちています。
なぜなら宗教法人格の剥奪は内心の自由を否定するものではなく、1976年に提唱されたホームチャーチ活動を促進する効果があるからです。
地方教会に赴任した家庭連合2世公職者の挑戦は、FPA内部からも賞賛の声が挙がっています。
食口の霊的生命を大切にするホームチャーチ活動であれば、解散命令が確定して以降でも存続する可能性が高いです。
「牧会者」と呼ばれるに値する公職者に対して、地域の食口が生活を支える動きが生まれるでしょう(多くのプロテスタント教会は、そのように運営されています)。
日本社会がこのような宗教活動すらカルト扱いするのであれば、そのときこそ宗教者は団結して声を挙げなければなりません。
文顯進会長がFPAを設立してから、7年が経過しました。
忖度なしで書いてしまうと、FPAは家庭連合から分離した「ダウンサイジング」に苦しんでいます。
そんなFPAの現状は、解散命令が確定して以降の家庭連合の未来を映し出しているのかもしれません。
私自身は、家庭連合からホームチャーチとして独立して10年になります。
「ホームチャーチ・氏族メシアの実現はFPAで」と期待したものの、教勢がさほど伸びない現実にもどかしい思いを抱いてきました。
なぜならこの状況は、「家庭連合から高額献金ノルマを取り除いたら食口は幸せになれるか?」という小規模社会実験に他ならないからです。
FPAの掲げる成長目標は、創造原理に即したシンプルなものです。
ところが「極と極」でマッチングされた夫婦が、創造原理を素直に実践するのは容易でないことが分かってきました。
多くのFPAメンバーはいまでも、夫婦の不一致、子女の不登校・引きこもり、子女の信仰不継承のような問題を抱えています。
先祖解怨や中心霊分立のような気休めに逃避できない分、理想と現実のギャップがそのまま自分の肩にのし掛かってくるのです。
しかし良く考えてみれば、これは家庭連合から持ち越された負の遺産と呼ぶべきものなのかもしれません。
別のブログ記事から引用します。
実はFPAで活躍しているメンバーというのは、家庭連合に所属していた頃から家族関係が良く、価値観の一致に努力を惜しまなかった方々が多いです。
一方で個々の宗教情熱は素晴らしいものであっても、家族というチームプレイが苦手なメンバーは、活躍の場を見出すことが容易ではありません。
私はある時期までOneTruth有志の会でも活動していましたが、銃撃事件を経てもなお、FPAが教勢拡大する流れを作れませんでした。
それは独生女を巡る神学論争に決着を付けられないからではなく、「私がリアル天国を創る」という創造原理が、未だ実証されていないからなのでしょう。
解散命令という外圧によって家庭連合が「地域化」に成功すれば、FPAに入会するインセンティブはますます小さくなるのかもしれません。
ところで完全に地域化した食口というのは、これまでのように分派を差別する必要があるでしょうか?
各々の地域で活躍する食口は、韓国本部に忖度する必要などありません。
立場を越えた対話は、いまより遙かに容易になるはずです。
ここまで解散命令ありきで書いてきましたので、裁判での大逆転を期待する食口は不快に思われたかもしれません。
しかし私から見れば、解散命令が回避されることで世論の溜飲が下がらず、清平に搾取され続ける未来は悪夢です。
「地の塩・世の光」という原点に戻れる食口なら、立場を越えた再出発と対話が可能だと信じています。